胸の中に広がった黒いインクがべったりとこびりついているようで、気持ちが沈む。
しかし、フレイヤが作る香りに強い関心を持った招待客が次々と話しかけてきたため、心の中の整理をする余裕がなかった。
一度に大勢の貴族と話すことに緊張したが、ヴェーラが隣で付き添ってくれていたため、なんとか乗り切れたと思う。
このような時にいつもはそばに居てくれたシルヴェリオの姿はなかった。
ちらりと周囲を見回してみても、話しかけてくる招待客たちの影で遠くまでは見えなかった。
どこにいるかもわからないと、より後ろ向きな考えに引っ張られてしまう。
もしかすると、あの美しい令嬢と話しているのかもしれないと思うと、胸がチクチクと痛んだ。
***
舞踏会が終わり、招待客らを見送り終えた後、ドレスとヒールや緊張感から解放されたフレイヤは、余所行きのワンピースに着替えて屋敷の居間で一息ついていた。
目の前には、美しくて美味しそうなお菓子が並んでいる。
今夜はこのまま、この屋敷で泊まることになっており、湯あみの前に休憩させてもらうことになっているのだ。
結局、お菓子にありつくのは、パーティーが終わった後となってしまった。
香りの紹介が終わったらお菓子を食べる予定だったが、そのような時間は少しも取れなかったのだから仕方がない。
慌ただしさと緊張ですっかり疲れてしまったけれど、副工房長としてコルティノーヴィス香水工房の宣伝ができたと思うと、達成感が込み上げてくる。
「どのお菓子も、とっても美味しそう! 何から食べようかな?」
目の前に並んでいるのは、コップのような形のガラスの器に幾重もの層を作ったティラミス、ひと口大に切られた様々な種類のケーキに、表面をこんがりと焼いたクリームブリュレ――。
他にも、マカロンなどの小さなお菓子が用意されている。
どれもフレイヤのためにシルヴェリオが使用人に命じて取り置きしてくれていたお菓子だそうだ。
部屋に案内してくれえた使用人からその話を聞くと、令嬢と話していたシルヴェリオの姿をまた思い出してしまう。
たくさんのお菓子が並んでいて嬉しいはずなのに、その事に気を取られてしまって、いつものような幸福感を感じない。
(こんな状態でシルヴェリオと顔を合わせるのは、なんだか気まずいな……)
彼を強く意識してしまい、上手く話せなくなってしまうのではないだろうか。
もしかすると、嫉妬を抱いているような表情を見せてしまうかもしれない。
不安がひとりでに歩き始めたため、ブンブンと頭を振って、頭の中から追い出す。
(お菓子を食べて、気分転換しよう!)
気持ちをリフレッシュするなら、さっぱりとした酸味のある味のお菓子がいいのかもしれない。
そこで、小さく切られたレモンチーズケーキをパクリと食べた。
爽やかな酸味とコクのあるチーズの味が口の中に広がり、美味しさに頬が緩む。
今度は、ほろ苦いティラミスを食べようと手を伸ばしたところで、扉が開いてシルヴェリオが部屋の中に入ってきた。
白色のシャツに黒色のスラックスといった、寛いだ服装だ。
いつもきっちりと結わえている髪を下ろしており、珍しい。
引き寄せられるようにじっと見てしまっていると、シルヴェリオと視線が交わる。
彼の目元が柔らかく綻んだような気がして、ドキリとした。
「お疲れ様。初めてのことばかりで大変だっただろうが、全力を尽くしてくれて感謝する。先ほど姉上から聞いたのだが、手袋は既に多くの購入希望者が現れたため、発売と同時に売り切れになりそうな勢いらしい」
「シルヴェリオ様も、お疲れ様です。売上が好調になりそうで、安心しました。シルヴェリオ様とコルティノーヴィス伯爵が入念に準備されたから、成功したのですね」
「いいや、フレイさんが素晴らしい香りを調香してくれたおかげだ」
シルヴェリオは差し向かいのソファに腰かけると、こちらをじっと見つめてくる。
「俺の事は気にせず、思う存分菓子を食べてくれ」
「は、はい……」
そう言われても、他の女性に嫉妬のような感情を抱くほど好きになった人物に真正面から見つめられている状態で、パクパクと食べるなんて気が引ける。
ティラミスをひと口食べたが、あまり味を感じなかった。
あまりにも気まずいため、なにか話しをして、シルヴェリオの注意を逸らしたい。
話題を探してすぐに思い浮かんだのは、シルヴェリオと一緒に話していた、あの美しい伯爵令嬢だ。
「舞踏会で、オレーフィチェ伯爵令嬢とお話していましたよね。お二人はご友人なのですか?」
「いや、顔見知り程度だ。以前、魔導士の仕事でオレーフィチェ伯爵家の領地に出現した魔獣を討伐したことがあったから、当時の思い出話をしていた」
「そう……だったのですね」
自分から話を振ったのに、後悔した。
その当時、二人の間に何があったように思えて、より一層オレーフィチェ伯爵令嬢に嫉妬心を抱く。
友人ではなくても、お互いに惹かれ合っているのかもしれない。
だから、再会した二人は長い時間、語り合っていたのではないか。
「なぜ、オレーフィチェ伯爵令嬢の話を? 彼女のことが気になるのか?」
「い、いえ! お二人が一緒にいるところをみかけて、お似合いだと思いましたので……」
ああ、自分は、なんてことを言っているのだろう。
咄嗟に出てくる言葉が、なにもかも自分の首を絞めている気がする。
「お似合い……か」
シルヴェリオはぽつりと呟くと、膝の上で両手を組んで、なにやら思案し始めた。
彼があまりにも真剣な表情を浮かべているので、お菓子を食べる手を止めたまま見守る。
部屋の中がすっかり静かになってしまい、自分の心臓の音が辺りに響いていそうな気がした。
「本当は、入念に準備してから伝えるつもりだった。――しかし、このままでは勘違いされてしまいそうだから、今話すしかなさそうだな」
その言葉に、思わず身構えた。
今までの話の流れからすると、オレーフィチェ伯爵に関する内容のような気がする。
彼女を愛しているのだと、シルヴェリオの口から聞いたら――自分は平静を装えるだろうか。
逃げ出したいと思うものの、体が動かない。喉が締め付けられるような感覚がして、話すこともできなかった。
ただ、怯えたまま、シルヴェリオを見つめる。
彼は組んでいた手を解くと立ち上がり、フレイヤの目の前に立つ。
どうしたのだろうと思った矢先に、シルヴェリオはその場で膝を突いた。
いつもは少し見上げて見ていた彼の菫のような色の髪が、今は視界の下のほうに見える。
「シルヴェリオ様……? いったい、どうしたのですか?」
「俺はフレイさんを、愛してる。だから、他の人とお似合いだと言われると悲しい」
「――っ」
シルヴェリオの言葉が、何度も頭の中を反芻する。
心臓が大きく脈打っており、その震えが全身を揺らしているような感覚がした。
愛する人が、自分を愛してくれている。
想いを通じ合った喜びが広がった刹那、心は瞬く間にしぼんでいった。
たとえ両想いであったとしても、自分たちの間には身分差がある。
平民と貴族の間の恋は障壁が多く、必ずしも幸せになれるとは限らない。
貴族社会で生きていくためには社交が欠かせないが、貴族はそう簡単に平民に受けれてくれはしないのだ。
それに相手の貴族だって、周囲から反対されたから貴族籍を捨てて愛する人と駆け落ちした結果、苦労した人もいる。
自分のせいでシルヴェリオが不利益を被るなんて、望んでいない。
だから、この想いは隠し続けなければならないのだ。
シルヴェリオや、周囲の人々に悟られることのないように――。
「返事はいつでもいい。ずっと待っている。……ただ、フレイさんの負担にはなりたくないから、俺のことは恋愛対象に見れないのであれば、遠慮なく断ってくれ。たとえ断ったとしても、調香師を辞めさせることはないから安心してほしい。私情を挟むなんて愚かな真似はしない」
「……シルヴェリオ様はそのようなことをしない方だとわかっています」
「そうか。信頼してもらえていて、よかった」
ふわりと微笑みを浮かべたシルヴェリオの優しい眼差しに胸が痛み、目の奥が熱くなる。
私も愛しているのだと伝えられたら、どんなによかっただろう。
「髪に触れても?」
「どっ、どうぞ……」
思わず答えてしまい、ハッとした。
鼻先を『とある魔導士の至宝』の香りが掠めたかと思うと、シルヴェリオの顔が近くにある。
シルヴェリオの指がフレイヤの髪の一房を掬うと、彼は目を伏せて、髪にそっとキスをしてきた。
その後のことは、覚えていない。
しかし、フレイヤが作る香りに強い関心を持った招待客が次々と話しかけてきたため、心の中の整理をする余裕がなかった。
一度に大勢の貴族と話すことに緊張したが、ヴェーラが隣で付き添ってくれていたため、なんとか乗り切れたと思う。
このような時にいつもはそばに居てくれたシルヴェリオの姿はなかった。
ちらりと周囲を見回してみても、話しかけてくる招待客たちの影で遠くまでは見えなかった。
どこにいるかもわからないと、より後ろ向きな考えに引っ張られてしまう。
もしかすると、あの美しい令嬢と話しているのかもしれないと思うと、胸がチクチクと痛んだ。
***
舞踏会が終わり、招待客らを見送り終えた後、ドレスとヒールや緊張感から解放されたフレイヤは、余所行きのワンピースに着替えて屋敷の居間で一息ついていた。
目の前には、美しくて美味しそうなお菓子が並んでいる。
今夜はこのまま、この屋敷で泊まることになっており、湯あみの前に休憩させてもらうことになっているのだ。
結局、お菓子にありつくのは、パーティーが終わった後となってしまった。
香りの紹介が終わったらお菓子を食べる予定だったが、そのような時間は少しも取れなかったのだから仕方がない。
慌ただしさと緊張ですっかり疲れてしまったけれど、副工房長としてコルティノーヴィス香水工房の宣伝ができたと思うと、達成感が込み上げてくる。
「どのお菓子も、とっても美味しそう! 何から食べようかな?」
目の前に並んでいるのは、コップのような形のガラスの器に幾重もの層を作ったティラミス、ひと口大に切られた様々な種類のケーキに、表面をこんがりと焼いたクリームブリュレ――。
他にも、マカロンなどの小さなお菓子が用意されている。
どれもフレイヤのためにシルヴェリオが使用人に命じて取り置きしてくれていたお菓子だそうだ。
部屋に案内してくれえた使用人からその話を聞くと、令嬢と話していたシルヴェリオの姿をまた思い出してしまう。
たくさんのお菓子が並んでいて嬉しいはずなのに、その事に気を取られてしまって、いつものような幸福感を感じない。
(こんな状態でシルヴェリオと顔を合わせるのは、なんだか気まずいな……)
彼を強く意識してしまい、上手く話せなくなってしまうのではないだろうか。
もしかすると、嫉妬を抱いているような表情を見せてしまうかもしれない。
不安がひとりでに歩き始めたため、ブンブンと頭を振って、頭の中から追い出す。
(お菓子を食べて、気分転換しよう!)
気持ちをリフレッシュするなら、さっぱりとした酸味のある味のお菓子がいいのかもしれない。
そこで、小さく切られたレモンチーズケーキをパクリと食べた。
爽やかな酸味とコクのあるチーズの味が口の中に広がり、美味しさに頬が緩む。
今度は、ほろ苦いティラミスを食べようと手を伸ばしたところで、扉が開いてシルヴェリオが部屋の中に入ってきた。
白色のシャツに黒色のスラックスといった、寛いだ服装だ。
いつもきっちりと結わえている髪を下ろしており、珍しい。
引き寄せられるようにじっと見てしまっていると、シルヴェリオと視線が交わる。
彼の目元が柔らかく綻んだような気がして、ドキリとした。
「お疲れ様。初めてのことばかりで大変だっただろうが、全力を尽くしてくれて感謝する。先ほど姉上から聞いたのだが、手袋は既に多くの購入希望者が現れたため、発売と同時に売り切れになりそうな勢いらしい」
「シルヴェリオ様も、お疲れ様です。売上が好調になりそうで、安心しました。シルヴェリオ様とコルティノーヴィス伯爵が入念に準備されたから、成功したのですね」
「いいや、フレイさんが素晴らしい香りを調香してくれたおかげだ」
シルヴェリオは差し向かいのソファに腰かけると、こちらをじっと見つめてくる。
「俺の事は気にせず、思う存分菓子を食べてくれ」
「は、はい……」
そう言われても、他の女性に嫉妬のような感情を抱くほど好きになった人物に真正面から見つめられている状態で、パクパクと食べるなんて気が引ける。
ティラミスをひと口食べたが、あまり味を感じなかった。
あまりにも気まずいため、なにか話しをして、シルヴェリオの注意を逸らしたい。
話題を探してすぐに思い浮かんだのは、シルヴェリオと一緒に話していた、あの美しい伯爵令嬢だ。
「舞踏会で、オレーフィチェ伯爵令嬢とお話していましたよね。お二人はご友人なのですか?」
「いや、顔見知り程度だ。以前、魔導士の仕事でオレーフィチェ伯爵家の領地に出現した魔獣を討伐したことがあったから、当時の思い出話をしていた」
「そう……だったのですね」
自分から話を振ったのに、後悔した。
その当時、二人の間に何があったように思えて、より一層オレーフィチェ伯爵令嬢に嫉妬心を抱く。
友人ではなくても、お互いに惹かれ合っているのかもしれない。
だから、再会した二人は長い時間、語り合っていたのではないか。
「なぜ、オレーフィチェ伯爵令嬢の話を? 彼女のことが気になるのか?」
「い、いえ! お二人が一緒にいるところをみかけて、お似合いだと思いましたので……」
ああ、自分は、なんてことを言っているのだろう。
咄嗟に出てくる言葉が、なにもかも自分の首を絞めている気がする。
「お似合い……か」
シルヴェリオはぽつりと呟くと、膝の上で両手を組んで、なにやら思案し始めた。
彼があまりにも真剣な表情を浮かべているので、お菓子を食べる手を止めたまま見守る。
部屋の中がすっかり静かになってしまい、自分の心臓の音が辺りに響いていそうな気がした。
「本当は、入念に準備してから伝えるつもりだった。――しかし、このままでは勘違いされてしまいそうだから、今話すしかなさそうだな」
その言葉に、思わず身構えた。
今までの話の流れからすると、オレーフィチェ伯爵に関する内容のような気がする。
彼女を愛しているのだと、シルヴェリオの口から聞いたら――自分は平静を装えるだろうか。
逃げ出したいと思うものの、体が動かない。喉が締め付けられるような感覚がして、話すこともできなかった。
ただ、怯えたまま、シルヴェリオを見つめる。
彼は組んでいた手を解くと立ち上がり、フレイヤの目の前に立つ。
どうしたのだろうと思った矢先に、シルヴェリオはその場で膝を突いた。
いつもは少し見上げて見ていた彼の菫のような色の髪が、今は視界の下のほうに見える。
「シルヴェリオ様……? いったい、どうしたのですか?」
「俺はフレイさんを、愛してる。だから、他の人とお似合いだと言われると悲しい」
「――っ」
シルヴェリオの言葉が、何度も頭の中を反芻する。
心臓が大きく脈打っており、その震えが全身を揺らしているような感覚がした。
愛する人が、自分を愛してくれている。
想いを通じ合った喜びが広がった刹那、心は瞬く間にしぼんでいった。
たとえ両想いであったとしても、自分たちの間には身分差がある。
平民と貴族の間の恋は障壁が多く、必ずしも幸せになれるとは限らない。
貴族社会で生きていくためには社交が欠かせないが、貴族はそう簡単に平民に受けれてくれはしないのだ。
それに相手の貴族だって、周囲から反対されたから貴族籍を捨てて愛する人と駆け落ちした結果、苦労した人もいる。
自分のせいでシルヴェリオが不利益を被るなんて、望んでいない。
だから、この想いは隠し続けなければならないのだ。
シルヴェリオや、周囲の人々に悟られることのないように――。
「返事はいつでもいい。ずっと待っている。……ただ、フレイさんの負担にはなりたくないから、俺のことは恋愛対象に見れないのであれば、遠慮なく断ってくれ。たとえ断ったとしても、調香師を辞めさせることはないから安心してほしい。私情を挟むなんて愚かな真似はしない」
「……シルヴェリオ様はそのようなことをしない方だとわかっています」
「そうか。信頼してもらえていて、よかった」
ふわりと微笑みを浮かべたシルヴェリオの優しい眼差しに胸が痛み、目の奥が熱くなる。
私も愛しているのだと伝えられたら、どんなによかっただろう。
「髪に触れても?」
「どっ、どうぞ……」
思わず答えてしまい、ハッとした。
鼻先を『とある魔導士の至宝』の香りが掠めたかと思うと、シルヴェリオの顔が近くにある。
シルヴェリオの指がフレイヤの髪の一房を掬うと、彼は目を伏せて、髪にそっとキスをしてきた。
その後のことは、覚えていない。


