追放された調香師の私、ワケあって冷徹な次期魔導士団長のもとで毎日楽しく美味しく働いています。

 シルヴェリオたちがフレイヤの失踪を知る少し前のこと。
 フレイヤの視界がゆっくりと確かな輪郭を拾うようになった時、フレイヤは自分が見知らぬ部屋の中にいることに気づいた。

 クリーム色の漆喰の壁に、淡い色の寄木の床。窓には薄手のカーテンがかかっており、風がふわりとカーテンをはためかせると、窓の向こうに貴族の館にありそうな美しい庭園が見える。

 部屋の中には本棚と執務机らしい大きくて立派な机があり、ここが執務室であることが窺える。
 家具はどれも簡素だが、しっかりとした造りで品がある。
 
 フレイヤはくんくんと鼻を動かして匂いを嗅ぐ。
 紙やインク、そして微かに花の甘い香りがする。

「ここは……どこ?」

 フレイヤが思わず呟くと、片手がくいと引っ張られた。繋いだ手の先にはアストリッドがいる。
 自分を攫うと宣言した人物の姿を目にして、フレイヤは思わず後ずさる。しかし手を繋いでいるためさほど離れられなかった。

 フレイヤの心臓がドクドクと大きく脈を打つ。ここに来る前、アストリッドはフレイヤを攫うと言った。
 少女の姿に変身して近づいたのは、こうしてフレイヤを攫うタイミングを狙っていたのだろう。

 そう思うと、アストリッドのことが怖くてならない。
 
()()エイレーネ王国の国内よ。それ以上は教えられないわ」

 アストリッドはフレイヤの質問に答えつつ、気遣わし気にフレイヤを見つめ返した。

「転移の魔法は初めてよね? 気分は悪くない?」
「う、ううん。大丈夫……」
「よかった、転移魔法で体調を崩す人が多いから心配だったの。だけど、念のため座るか横になって休んだ方がいいわね」
 
 アストリッドは安堵したように息を吐くと、ゆるりとした力でフレイヤの手を引く。
 
 フレイヤを気遣う眼差しを向けており、決して力任せに連れて行こうとはしない。
 そんなアストリッドの様子に、フレイヤの警戒心が少しだけ緩んだ。

「客間を使うといいわ。初めて転移魔法で移動した人は、転移魔法に使われた膨大な魔力に()てられたり、魔法による移動で体が混乱して眩暈がすることがあるのよ」

 アストリッドは扉を開けて、フレイヤを連れて部屋を出る。
 なされるがままについて行ったフレイヤは、廊下の設えもまた、華美ではないが品の良い雰囲気があって高級品に見える。
 どう見ても貴族の屋敷のような内装に、フレイヤは圧倒された。

 いったい何のためにここまで連れてこられたのだろう。
 目的が分からなければ不安が募るばかりだ。

 フレイヤは決心してアストリッドに尋ねてみた。
 
「あの、どうして私をここに連れて来たの?」
「……あなたにやってほしいことがあるの。だけどまずは、あなたの体を休ませなければばらないわ」

 ぼやかされた答えが返ってきたせいで、謎が深まるばかりだ。
 アストリッドの様子だとフレイヤに危害を加えることはなさそうに見えるが、だからといって安心はできない。

 なにかアストリッドの目的を知る手掛かりがないだろうか。
 そう考えたフレイヤは、さりげなく辺りを見回す。

 ふと、扉が少しだけ開かれた部屋を見つけた。
 
 その開かれた扉の隙間から、清潔なリネンの香りと、ツンとしたアルコールの香りが漂ってくる。
 
「ここに療養している方がいるの?」

 フレイヤが思わず質問すると、アストリッドは目を丸くした。

「そうだけど、どうしてわかったの?」
「リネンの香りとアルコールの香りがしたから、なんとなく……」

 フレイヤの言葉に、アストリッドはあたりの香りを嗅いでみると、小さく首を傾げる。

「私は全く分からないわ。あなた、とても鼻がいいのね」
「調香師だから、香りに敏感なの」

 そんなやりとりをしていると、開かれていた扉が軋む音を立ててさらに開く。
 開いた扉の間から、お仕着せを着たメイドらしき女性が出てきた。
 
 年はフレイヤと同じくらいに見えた。
 きっちりと結い上げた灰色の髪と、切れ長の緑色の目がどこか氷のような冷たさを彷彿とさせる女性だ。
 
 メイドは扉の取ってから手を離すと、アストリッドに向けて優雅に礼をとる。
 
「おかえりなさいませ。お出迎えできず申し訳ございません」

 氷のような表情が崩れ、心から申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 アストリッドは片手を挙げて、頭を上げるようメイドに声をかける。

「謝らないでちょうだい。アイリックの看病に専念してくれていたのだから、あなたに非はないわ」

 アストリッドがフォローしても、メイドはなにか言いたげな顔を浮かべるのだった。
 
 アストリッドはこのメイドにとても慕われているのだと、フレイヤは二人のやり取りを見て直感する。

「もしかして、そのアイリックさんがここで療養している方?」

 フレイヤの問いを聞いたメイドがなにか言いかけたが、アストリッドが視線で黙らせる。
 
「ええ、そうよ。私の弟なの。フレイヤさんには少し休んでもらいたいのだけれど、せっかくだから紹介しようかしら」

 アストリッドは開いた扉の間から中を覗く。フレイヤもそれに倣った。

 室内は先ほどの執務室と同じ、クリーム色の漆喰に明るい色の寄木の床が使われており、温かな色合いだ。
 大きな窓にが開けられており、陽の光がさんさんと降り注いでいる。

 その日の光が照らす先には寝台が置かれており、一人の男性が横たわっている。
 フレイヤより少し年上に見えるその男性は、目を閉じてぐったりとしている。

 肌が青白くて線が細い。見るからに体調が悪そうだ。
 寝台に広がる長めの髪の色はアストリッドと同じ銀色。

「先ほどまで発作が起きて魔力が逆流して苦しんでいらっしゃったので、魔法石に魔力を込めていただき、流れを元に戻しました」
 
 メイドが寝台の横に置いてあるサイドテーブルを指差す。そこには簡素な木の箱が置かれており、中には様々な色の魔法石が入っている。そのどれもが強い光を宿しており、多くの魔力を含んでいることが見て取れる。
 
「アイリックさんの病名は?」

 フレイヤが尋ねると、アストリッドは魔法で引き寄せた魔法石の一つをフレイヤに手渡す。

「魔力過多による魔力逆流症。(かか)る人が少なくて治療法が見つかっていないのだけど、私たちの一族は魔力が強くて魔力量が多い傾向にあるから、よくこの病で命を落とすのよ」

 魔力逆流症とは、魔力が強く、かつ魔力量が多い者が発症する病だ。体の中で魔力が逆流して魔力回路や内臓を傷つけることもある危険な病で、不治の病とされている。
 
 そんな病に罹る者が多いということは、アストリッドの一族は魔法の大家なのだろう。フレイヤはそう仮定しつつ、魔法石を受け取る。
 強い光を持つ魔法石には、微かにヒビが入っている。どうやらアイリックの魔力が強過ぎて耐え切れないようだ。
 
(こんなにも強い魔力が体の中に流れていたら、たしかに体中に支障が出そう)

 どうにかして癒すことはできないだろうか。そんな考えがフレイヤの脳裏を過る。
 聖属性の魔力を使えば、治せるのではないだろうか――。

 そこまで考えて、頭を振る。
 使い方を知らない魔力を使うわけにはいかないのだ。

「フレイヤさん、あなたの祝福の調香師としての力で、アイリックの病を治してほしいの。エイレーネ王国の第二王子にかけられた呪いを解呪したときのように」
「そうしたいのはやまやまだけど、あの時は色んな方の力を借りて、偶然解呪できたから……」

 躊躇うフレイヤに、アストリッドは頭を下げる。
 部屋の扉の前で控えているメイドが、小さく息を呑んだ気配がした。
 
「オルメキア王国の第一王女として依頼するわ。どうかあなたの力を貸してほしいの」
「え、オルメキア王国の第一王女?」

 フレイヤの目と口がぱかりと大きく開く。思わず自分の耳を疑ってしまったが、アストリッドに首肯されてしまう。
 
「ええ、アストリッドはここに来るときに使った偽名で、本当の名前はラグナ――オルメキア王国の第一王女よ」
「そ、そんな……」

 フレイヤはガタガタと震える。
 知らなかったとはいえ、一国の姫君にタメ口で話していたのだ。不敬罪を下されるのではと思うと恐ろしくてならない。

 くらりと眩暈がしたフレイヤを、アストリッドもといラグナが慌てて支えるのだった。