フレイヤが手紙を送った翌日の朝早くにハーディからの返事が届いた。
 手紙には、商談日の承諾と、楽しみにしているといった一言が書かれていた。

 そうしてしてフレイヤたちは商談に向けて準備を進め、当日を迎えた。

「シル、今日の商談でハーディ殿とマドゥルス殿にとある魔法をかけてもらいたい」

 ネストレはコルティノーヴィス香水工房に来るなり、シルヴェリオにそう告げた。
 
 彼が望む魔法は、変装解除魔法だ。
 魔法による変装を無効化し、また化粧や髪の染色を落として本来の姿に戻す。

「なるほど、ハーディさんが姿を偽っているとお考えなのですね」
「それもそうだが……実は、ハーディ殿の調査書を見てから気がかりなことがある。そこに描かれていた似顔絵があまりにもアーディル殿下に似ているのだ。もしかすると本人なのかもしれないと思ってな……」

 二年前にアーディルがエイレーネ王国に留学した際、ネストレは三度ほどアーディルと顔を合わせていた。

 似顔絵に描かれているハーディの姿は当時のアーディルより髪が長くなっており、おまけにアーディルの髪色は紺色のため特徴がやや異なるが、顔立ちと雰囲気は似ているのだという。

「イルム王国は身分制度が厳しく、生まれた時に国から派遣された錬金術師らによって手首に身分を表す印を刻印される。王族も例外ではないから、彼らに変装解除魔法をかけた後にその印を確認する」
「わかりました。それでは、ハーディさんにこれまでの商談について聞いてから変装解除魔法をかけます」

 それで少しでも早く相手の正体と目的を掴めるのであればいいのだが――。

 シルヴェリオは工房を見回す。
 深い青色の目に映るのは、コルティノーヴィス香水工房で働く彼の大切な部下たち。

 今回の商談で何があっても、彼らを守ろうと心の中で密かに誓うのだった。
 
     ***
 
 やがて指定した商談の時間になり、ハーディとマドゥルスが現れた。
 
 フレイヤとシルヴェリオが工房の外に立って二人で出迎えると、ハーディは胸の前で両手を合わせ、イルム王国式の挨拶をする。
 
「コルティノーヴィス卿にフレイヤ殿、この度は商談の日を設けてくれたこと感謝する」
「こちらこそ、遠路はるばる来ていただいたにもかかわらず日程を合わせてくれたこと感謝します」

 シルヴェリオが片手を差し出すと、ハーディも片手を差し出して握手した。

 ハーディが手を動かすと彼の羽織っている外套の裾が少し動き、フレイヤはハーディの手首に刻印らしきものを見つけた。

 描かれているのは丸と三角を用いた抽象的なもので、商談前にネストレから教わった平民の刻印と一致している。

「お客様を立たせたままにするわけにはいきませんので、どうぞかけてください。座ってゆっくり話しましょう」

 シルヴェリオはそう言い、扉を開いて工房内に入ると、手でカウンター前に設置されたテーブルと椅子を差す。
 
 今日は店舗部分を貸し切りにして商談をするため、カウンターの前に商談用のテーブルを置いているのだ。

「ああ、そうさせていただこう」

 ハーディの黄金の目はテーブルを見た後、それとなく店内を見回した。
 店内にはコルティノーヴィス香水工房で働く面々の他に、店員に扮したネストレとジュスタ男爵とリベラトーレがいる。
 フレイヤはハーディが彼らの顔を確認しているように思えた。
 
 ハーディに続いて店内に入ったマドゥルスは、微かに肩を揺らした。訝しく思ってフレイヤがマドゥルスの視線の先を辿ると、ネストレの姿があった。

 今日のネストレは騎士服ではなく、コルティノーヴィス香水工房の制服を着ている。
 王子様らしいキラキラとしたオーラは隠せていないが、少なくとも騎士らしさは隠せているから警戒されるはずがない。
 
 それなのにマドゥルスからピリリと張り詰めた緊張感が漂う。
 
「……マドゥルス、なにをしているんだ。座るぞ」
「……」

 ハーディは椅子に腰かけながら、穏やかな声でマドゥルスに呼びかける。
 声は柔らかだが、どことなく有無を言わせない雰囲気があった。

 マドゥルスはもの言いたげな表情のままハーディの言葉に従い、彼の隣に座る。

 フレイヤとシルヴェリオはハーディとマドゥルスの向かい側にある椅子に座った。

「それでは改めて、自己紹介から始めましょう。コルティノーヴィス香水工房の工房長で魔導士団の魔導士のシルヴェリオ・コルティノーヴィスです」
「私はジャウハラ商会の商人のハーディ。そして隣にいるのは護衛で雇っているマドゥルスだ」
 
 シルヴェリオはコルティノーヴィス香水工房の設立してから今までの話を簡単にかいつまんで話すと、ハーディにこれまでの商談について問うた。
 ハーディが答えた内容は、リベラトーレが調査書に書いていた内容の通りだ。

「これからは貴族向けの商売もしたいから、ぜひジャウハラ商会にここの香水を卸してほしい」
「……その前に、もう少しお互いを知る必要がありますね」
 
 シルヴェリオは淡々と述べると、変装解除魔法の呪文を呟く。
 彼が右手の人差し指を軽く振ると、ハーディとマドゥルスの周りに微風が吹いた。

 ハーディは今日もフレイヤが調香した香水をつけていたようで、瑞々しい青葉の香りがフレイヤの鼻を掠める。

「――っ!」
 
 マドゥルスが咄嗟に立ち上がろうとすると、シルヴェリオは片手を動かして宙を切る。それだけでマドゥルスの体は椅子に戻されて固定された。
 
(今のシルヴェリオ様、呪文の詠唱をしないで魔法を使った……?!)
 
 フレイヤはあんぐりと口を開けてシルヴェリオの横顔を見つめた。

 普通、魔法の発動には呪文を伴うものだ。魔法を極めた魔導士は短縮呪文でも魔法を使えるらしいと聞いた事はあったが、呪文の詠唱なしで魔法を使う者なんて聞いたことが無い。
 とんでもない大技を成したというのに、シルヴェリオはいつもの涼しい顔をしている。

「髪の色が変わった……」

 愕然としたレンゾの声や、エレナとアレッシアが息を呑む声が聞こえ、フレイヤは視線をハーディとマドゥルスに戻した。
 マドゥルスの見目は変わったいなかったが、隣にいるハーディの髪は黒色から紺色へと変わっている。

 風で翻った外套の裾から覗く手首には先ほど見た平民の印はなく、杖を持つ猛禽類を抽象化したとされる印が代わりに刻まれていた。
 
「……突然魔法をかけた無礼をお許しください、アーディル殿下。建国祭前で他国からの侵入者に警戒しているため、万が一に備えて変装解除魔法をかけさせてもらいました」

 シルヴェリオは椅子から立ち上がると、アーディルに頭を下げた。

「変装解除魔法か……おい、ラベク。私の今の姿はどうなっている?」
 
 アーディルは感情の読めない表情でシルヴェリオを見つめながら、隣にいるマドゥルスをラベクと呼んだ。
 どうやらそれが彼の本来の名前らしい。

()()()()()殿()()()()姿()()()()()()()
「……そうか」

 ラベクの答えに、アーディルはやや落胆を滲ませた。
 フレイヤは二人のそんなやりとりに首を傾げる。

(変装解除魔法をかけられたのだから、自分の本来の姿に戻されているとわかっているはずなのに……どうしてわざわざラベクさんに聞くのかな?)
 
 もしかすると、魔法の無い国から来たアーディルからすると、どれほど変装を解かれているのかわからないのかもしれない。
 そう結論付けて、フレイヤは己の胸の内に生まれた疑念を片付けた。