次の日の朝、ノエルは羅針盤を持たずに森に行こうと支度をしていた。エーリエが無事ならば良いのだが……と、彼女が本当に森に戻ったことを知っているくせに、そんなことを思う。それらは言い訳だ。

(ただ、一目だけでも)

 本当ならば、確認をしたかった。どうして自分に声をかけてくれなかったのか。どうして帰ってしまったのか。用事はなんだったのか。きっと、自分に「魔女の家に行く道具」を作ってくれたのだろうとは思うが、それでも彼はエーリエの口から聞きたかった。もしかしたら、何か急用を思い出して帰っただけかもしれないが、それならばそれで、そうだと彼女の口から聞きたい。何よりも。

(エーリエに会いたい……)

 マールトに羅針盤を返してからというもの、ノエルは日々そわそわとしていた。それまで、羅針盤を自分は持っていて、いつでも好きなだけエーリエに会いに行けた。実際はポーションの受け取り以外はほんの3回ほどだったが、それでも。

 失ってからわかる。自分は取引に行っていたはずなのに、ただ、エーリエに会いにいっていたのだと。

 森の静けさ。あの家の中の穏やかな空気。そういった環境を味わいに行っていた、と言えば、間違いはない。だが、それではまったく足りない。そこにエーリエがいるから彼は行っていたのだ。

(わたしは馬鹿だ。誰もいない、あの家で2人きりでいたあの時間が心地良いなんて……)

 理由はエーリエだ。彼女がそこにいたからだ。

 彼女は自分の顔が見えなくとも、見えていても、何も態度に変わりがない。いつも嬉しそうにそっと微笑む、彼女がまとう柔らかな空気が好きだ。あの雨が降った日、もっと雨が降り続けば良いのにと最後には思いながら、名残惜しい気持ちであの家を去った。そこに自分がいる用事がなく、ただ、雨が止むだけ、という言い訳をして滞在したあの時間。大した話をしたわけではない。だが、大した話ではないからこそ、それがなんだか嬉しかった。ずっと、あの時間が続けば良いと思えるほどに……。

「よし、行こう……」

 そうこうして家を出ようと、彼がユークリッド公爵家の2階からエントランスに繋がる階段を駆け下りている時だった。ポケットに入れておいた、遠距離で連絡を取れる魔道具がブルブルと震える。それは、騎士団長になってから持たされたもので、この国の各騎士団長と王城のやりとりを可能にする希少なものだ。

 ポケットからそれを出して、ノエルは応じた。

「はい、ノエル・ホキンス・ユークリッドです」
『こちらは第一騎士団長リンド・カーファル・スーザットだ。ユークリッド第三騎士団長。今すぐ王城に来てくれ』
「何かあったんですか」
『聖女様が王城に召し抱えられた。すぐに、王城での受け入れ儀式を行う。ユークリッド公爵にもお伝えして、同行をお願いしてくれ』
「!……わかりました」
 
 タイミングが悪い、と思いながらノエルは小さくため息をついた。

「仕方ない……森には明日行くか……」

 今日は、午後から遠出の予定がある。仕方がない、と軽く舌打ちをして、ノエルは父親と共にユークリッド公爵家を出た。勿論、森に行ってエーリエのところにたどりつけるかどうかも謎ではあったのだが……。