ノエルはしばらく、鏡を覗きこんで、まつげの長さを見たり、口を開けたり閉じたりしているエーリエを見ていた。大きく口を開けて、喉の奥まで見ているエーリエは少し間抜けで、ノエルは「そう口を大きく開けるもんじゃない」とかすかに笑いながら言った。

 それから、彼女は「あっ!」と声をあげて、ロケットペンダントのトップを開けた。それをしみじみ覗き込んで、ふわりと微笑む。

「まあ、ノエル様。わたし、母の顔を見ることが出来ました! こんな顔をしていたのですね……本当に……本当に嬉しい……」

 そう言って、彼女は再びロケットを閉め、ぎゅっと両手でそれを胸元で抱きかかえた。彼女が喜びをしみじみと噛み締めているのだろう。瞳を閉じた彼女の目の端に涙が浮かぶ。どれほど嬉しいのだろうか。これまでの19年間、一度足りと人の顔を見られず、そして母親の顔も見られないまま、亡くしてしまって。今、ようやくすべてを見られるようになって、彼女の世界はまるで色づいたのではないかと思える。ノエルが、一年間の暗い世界を終えて、眩しい光の中で目を開けた時のように。

 エーリエを見ていると、自分の顔にあった呪いの痕が消えたことなぞ、どうでも良いことのように思える。勿論ノエルはそれを嬉しく思ったけれど、それよりも何よりも、彼女の呪いが解けたことの方が彼には大切なことだったのだ。

(これから、彼女は今まで行くことがなかった城下町に行って、人々と会話をすることも出来る。きっと彼女の世界は広がっていくのだろう……)

 だが、彼女がたった一人で城下町を歩くことを考えると、いささかノエルは不安な気持ちになる。気をつけろ、と言いたいが、彼女には何をどう気を付けたら良いのか、どこからどこまで話をすれば良いのかと悩ましい。ノエルは、彼女が泣き止んだ頃、少し悩みつつも提案をした。

「エーリエ。君さえ良ければ、今度、城下町に一緒に行かないか。君が普段は行かない中央の方、人がたくさんいる場所に」
「えっ」
「どうだろうか」
「い、いいんですか……その……一人で行こうかと思ったんですが……なんとなく、ええ、なんとなく不安で……でも、ノエル様がご一緒してくださるなら、心強いです」
「そうか」

 エーリエは嬉しそうに笑った。ノエルも、僅かに口の端をあげて微笑む。それを見たエーリエは「それは、笑っていらっしゃるのですね。そうですか。笑うとそんなお顔になるんですね!」としみじみと言い、ノエルは「いや、違う……」と困惑の表情を浮かべた。



「すべては解呪されなかったのか」

 公爵家の自室。ノエルは姿見の前で自分の服をめくって、胸から腹部に向かって残っている赤い痕をそっと手で触れた。そして、背中。腰のあたりから肩甲骨付近まで、やはり赤い痕は残ったままだった。袖をめくる。腕にあった痕はなくなっていたし、足も同じくほとんど消えていた。

 エーリエが呪文を唱えている間に、黒い何かが自分の体からも出ているような気がしていたが、確かにそれはまだ出ている「途中」だったのだろう。

(だが、わたしから出ていた黒い霧のようなものは細かった……広く、浅く、残っていたということなんだろうか)

 それでも、顔から痕がすべて消えたことはありがたい。これで、仮面をつけなくても済むのかと思えば、彼はほっと安堵の息を再び漏らした。

 公爵家に戻った彼を見た、彼の義理の両親、そして使用人たちは、彼の顔からすっかり呪いの痕――実際は呪いそのものの残滓のようなものだったが――が消えたことを皆が喜んでくれた。彼は、それにうまく対応が出来なかったが、それでも人々が喜んでくれたこと、自分が喜んでもらえる存在であることが嬉しかった。

「今となっては、本当にわたしの呪いを解いたのがエーリエの母親だったのかは……」

 わからない。相変わらず調べても、解呪師を呼んだ時の情報が見つからないからだ。もしかしたら、王城に当時いた自分の世話をしていた者たちなら、憶えているかもしれないが……。

(そちら方面で調べてみるか。誰もわからないと言っても、それでもやらないよりは良いだろう)

 それがわかったところで、どうにもならない。だが、もしも本当にそうならば、少なくともエーリエに改めて謝罪をしなければいけないと思う。そう、エーリエに……

「ああ……そうだな」

  自分の顔が見えて、最初にきょとんとしていたエーリエの表情を思い出し、ノエルは「くっ」と小さく笑った。彼女は自分自身の顔を見て、どう思ったのだろうか。食い入るように姿見を見ていた様子もとても可愛らしかったな……など思う。

 そして、仮面をとった彼にも。そうだ。顔が見えるようになった後でも、彼女は相変わらず、穏やかな笑みを見せてくれた。彼女が何か変わってしまうのではないかと少し思っていたが、そんなことはなかった。エーリエはエーリエで、何も変わらない。そのことは、ノエルにとって非常に喜ばしいことだった。

(ああ、そうだ。城下町に行こうと約束をしたが……)

 自分は羅針盤をマールトに渡さなければいけない。その前にもう一度訪問して、話をしなければ。

 そう考えたノエルだったが、彼はこれから少し先に催される剣術大会の運営や、騎士団の演習、それから第三騎士団のみの集中合宿などで忙しくなり、それからすぐには森に足を運べなくなってしまう。残念なことにまだ彼はそれを知らず、呪いが消えた顔を鏡でしみじみと見て、少しだけ気分を高揚させていた。