「聖女に失礼ではないですか。それに、わたしは既に王族でもなければ、ユークリッド公爵家の後継者でもありません」
「まだお前はわたしの後継者の候補だよ。ノエル」
「父上」

 それでは、自分が騎士団に入った意味がない。そう言いたくなったが、ノエルが声を出すより先に、ユークリッド公爵が言葉を続けた。

「と、わたしは思っているが、騎士団長になってしまうとな……ノエル。これは、聖女を王城に縛り付けるためだけではなく、国王陛下が陛下なりにお前を思ってのことだ」
「……とはいえ、聖女が本当にいらっしゃるのかどうか」

 そうは言っても、きっと本当に聖女を見つけたのだろうと思う。そうでなければ、まさか自分の妻にとまで話が進むわけがない。

 ノエルは聖女との婚姻を拒むつもりだったが、確かに自分の年齢を考えれば当たり前だ。ユークリッド公爵家には、更に年下の弟や妹がいる。いつまでも自分が独り身では迷惑をかけるだろうことも、彼は理解をしていた。

 それでも、彼はどうにもその辺にいる貴族子女を娶る気はなかった。そもそも、自分に嫁ぐことなぞ、誰も喜ばない。喜ばなくとも、まあ仕方がないと言ってくれるぐらいの女性にも、とんと心当たりはなかった。

「父上、こちらの話をしてもよろしいですか」
「……ああ」

 ノエルは話題を変えた。それでも公爵がまだ聖女の話を続けるならば仕方がない、とは思っていたが、ありがたいことに公爵はそれ以上のことを彼に言わなかった。
「父上は以前古代語を学んでいらしたと思いましたが」

「ああ、あれは学んでいた、なんてもんじゃない。少しかじって、すぐに辞めてしまってな……恥ずかしい限りだ」

 そう言うと、ユークリッド公爵は苦笑を浮かべた。古代語は難しい。腰を据えての勉学が必要だが、そこまでの時間が彼にはなかったのだと言う。

「とりあえず、なんとなく勉強できそうな道具はそろえたものの、なかなかな」

「その道具は今もありますか?」
「うん? お前が学ぶのか?」
「いえ、知人に貸してあげられたらと思いまして」

「ふむ。お前の知人に古代語を習得したがるような者がいるのか? ああ、勿論良い。返してもらう必要もない。わたしが持っていても宝の持ち腐れだからな」

 そう言うとユークリッド公爵は立ち上がり、書架に向かった。書架の隅に並んでいる書物を3冊。それから、別の書架にある書物を1冊。そして、最後に執務机の脇にあるチェストから1冊。

「持っていきなさい」
「ありがとうございます」

 それらを受け取りノエルは頭を下げる。それから二言三言交わすと、彼は部屋を出て行った。閉まる扉を見つめながら、ユークリッド公爵は「騎士団以外だろうが……そんな知人がいるのかな? 珍しい」と独り言を漏らした。



 ノエルは次の週には辞書と言語の相対表、古代語の単語帳のようなもの等、ユークリッド公爵から受け取ったものをエーリエのところは持って行った。

 エーリエはそれを見るまで「どういうものなんだろう」と想像も出来なかったようだったが、実物をめくれば驚き、大喜びで「これなら少しは勉強出来るかもしれません!」とにこにこと笑った。

 考えれば、11才で保護者を亡くした彼女だが、普通の書物を読めることがまず驚きだ。さらに幼い頃に母親は死んでおり、先代の魔女は文字を読めなかったのだから、独学でそれらを学んだとしか思えない。

「あのう、ちょうど今、焼き菓子を焼いていたところなんです。よかったら、ノエル様も食べていかれませんか? あっ、あっ、お仕事がお忙しいようでしたら、その、無理は言わないです!」

 それ以前に、知らない人間に出されたものを口には……とノエルは思ったが、もう彼女は知らない人間ではないな、と考え直す。

「今日は後は自分の家で書類仕事をするだけなのでな。ありがたくいただこう」
「!」

 ぱあっとエーリエの表情が明るくなる。そうか、彼女は自分の表情を見たことも、人の表情も見たことがないから、そんな無防備に喜びを表現するのか。そう思う反面、自分が焼き菓子を食べるだけで、そんなに彼女は嬉しいのか、とも思う。

「そのう、実は少し作りすぎてしまって……もし、お口に合うならば、いくつか持ち帰っていただくことは出来ませんか?」

 少し恥ずかしそうに言うエーリエ。まさか、人が作った焼き菓子を持ち帰れなど。ユークリッド公爵家のシェフが聞いたら「そんなものをお坊ちゃんに食べさせようと言うのか!」と怒り出すだろうな……とノエルは思う。

「まず、一つ食べてからで良いだろうか」
「あっ、勿論です!」

 エーリエはそう言って「厚かましいお願いをして申し訳ありません」と言って頭を下げた。それから、彼女は自分も茶を飲んで良いかとノエルに許可を求めてから、自分の茶器を持って彼の向かいに座った。