意地悪で不愛想で気まぐれだけど大好きなあなたに、おとぎ話が終わっても解けない魔法を

 仕事を終えたリーゼが帰宅すると、珍しく既にノクターンが帰っていた。
 私服のシャツと焦げ茶色のトラウザーズを合わせた、ゆったりとした装いでリーゼを迎えてくれる。

 誰かが出迎えてくれることなんて滅多にないから嬉しい。
 その相手がノクターンだから、なおのこと。
 
 というのも、いつもはリーゼが一番にこの家に帰るため、「おかえり」と言ってもらえることがなかったのだ。

 によによと頬が緩み、跳ねるような足取りでノクターンに駆け寄る。

「ただい――」

 ただいまと言いかけ、はたと気づく。
 今日から仕返し作戦を開始するというのに、これではいつも通りではないか。

 己の迂闊さに、むむむと眉間に皺を寄せる。

 気を取り直し、少し声の調子を落として「ただいま」と素っ気なく言ってみた。

(こんな感じでいいのかな?)

 いかんせんリーゼは恋愛の駆け引き初心者だ。このやり方が本当に合っているのかさえわからない。
 できることならいますぐにでもエディとジーンを呼んで確認してもらいたいくらいだ。
 
 不安になり、ちらりとノクターンの反応を窺う。
 ノクターンはいつもと変わらない表情で、リーゼを見つめ返している。

(ううっ。どうしよう……)
 
 リーゼの胸の中は、素っ気ない態度をとったことへの罪悪感でいっぱいだ。
 静謐な森を思わせる緑色の瞳に見つめられると、どうしても後ろめたさを感じてしまう。
 
 できることならいますぐにでも作戦を撤回し、いつも通り話しかけたいところだが。

(が、我慢しなきゃ。まだ始まったばかりなんだから!)
 
 これ以上ノクターンと話してしまわないよう、きゅっと唇を噛み締めた。
 ノクターンから目を逸らし、逃げ道を探す。
 
 その様子を見たノクターンが、何かを察したようで、片眉を持ち上げる。
 
「リーゼ? なにかあったか?」
「べ、別に?」

 問いかけてくる声が妙に近い。振り向くと、ノクターンの顔が目と鼻の先にあった。

(ち、近い!)

 至近距離で見つめられると動揺が伝わってしまいそうでならない。
 
 これ以上は無理だ。早くも心の中で白旗を揚げそうになったリーゼは、戦略的撤退することにした。
 すなわち、「自室に逃げる」である。まずはそこで気持ちを落ち着かせよう。

 リーゼはノクターンの脇を通り抜け、あっという間に自室に滑り込んだ。
 
「う~っ。これでいいのかなぁ?」

 力なく床にへたり込み、頭を抱えた。
 ほんの数分のやりとりだったというのに、とてつもない疲労感を覚えた。

 しかし作戦は始まったばかり。
 弱音を吐いてばかりではいられない。

(今夜を乗り越えたら慣れるかもしれないから頑張ろう!)

 そう自分に言い聞かせて奮起したのだけれど――現実はそう甘くなかった。
 服を着替え、夕食の準備をしに台所へ行くと、なんとノクターンが椅子に座って待ち構えているではないか。
 
 リーゼは心の中で悲鳴を上げた。
 どうしてここにいるの?! と言いたいところだが、ここはノクターンの家である。彼がどこにいようと彼の自由だ。

 ノクターンは一度だけリーゼに視線を投げかけてきたが、リーゼが反応しないでいると、手元の本に視線を戻した。

「……」
「……」
 
 気まずい沈黙が台所に充満する。
 
 リーゼはなるべくノクターンを見ないようにして、夕食の下ごしらえに取りかかった。
 その背に、ノクターンからの視線がチクチクと刺さるのを感じながら……。

(どうして今日に限ってずっと近くにいるの?!)
 
 黙って鎮座するノクターンのことが気になってしかたがなく、危うく玉ねぎのスープに砂糖を入れそうになってしまった。

 夕食の時も、リーゼは隣から寄せられる視線に気を盗られてしまう。

 振り向きたい。
 でも、ここで振り向いたら、作戦初日から頓挫することになる。

 悶々とした気持ちのまま匙を握って口元にスープを運ぶが、どうも食べる気になれない。
 迷った末に、ご飯を残して席を立つことにした。

「ごちそうさま。食欲がないから残すね」
「あら、体調が悪いの?」
 
 心配して声をかけてくれるハンナに、大丈夫だといわんばかりに笑ってみせる。
 
「ううん。会社でたくさんお菓子を貰って食べたから、お腹いっぱいなの。明日からは気をつけなきゃいけないね」
「そうなのね。甘いものをいっぱい食べたのなら、虫歯にならないよう念入りに歯を磨いてらっしゃい」
「は~い」

 そそくさと台所を出ると、ほっと息をつく。
 ようやく気まずさから逃げ出せた。

(今日はやけにノクターンに見られていたような気がするけど、自意識過剰なのかなぁ?)
 
 いつもはごく自然に受け止めていた視線を意識的に避けているためか、以前よりノクターンを気にしているように思えてならない。
 
(まだ初日だから、慣れていないだけ。頑張ろう!)

 両頬をぺちぺちと叩いて気合を入れ直したその時、足音がして振り返ると、ノクターンが背後にいた。
 どうして今日に限って……、と本日何度目かの心の叫びを心の中でありったけ叫んだ。

 緑色の瞳がリーゼを捕らえて放さない。
 
「熱、あるのか?」
「な、ない……けど?」

 努めてぶっきらぼうに答えた。

 蛇に睨まれた蛙のように固まっていると、ノクターンの手がリーゼの額に近づく。
 触れて熱を確認しようとしているらしい。
 
(も、もしかして、私が風邪を引いたと思って心配しているの?!)

 恋の駆け引きとしてとった行動を、風邪と勘違いされるなんて大変遺憾だ。
 浪漫もときめきもないこの状況に泣きたくなる。

(ノクターンのバカ!)

 リーゼは涙目になり、ノクターンの手を躱して自室に閉じこもった。
 寝台にぼふんと飛び込んで枕に顔を埋める。
 ノクターンへの不満をぶつぶつと呟いては、枕の底に沈めた。
 
(この作戦、本当に効果あるのかなぁ?)

 そもそも、ノクターンがリーゼを妹分だと思っている時点で、自分たちには向いていない作戦なのかもしれない。
 いま必要なのは、ノクターンの妹分から脱出する方法だ。

「……明日、どうしたらいいかエディに聞いてみようかな」

 進捗報告するよう言われているから、その時に聞いてみよう。

 リーゼは気持ちを切り替えると机に向かい、国家試験の勉強を始める。
 不安を胸に残したまま――。

 しかしリーゼは知らないのだ。
 
 扉を隔てた先にある廊下で、ノクターンがリーゼからの拒絶に打ちひしがれていたことを。
 そのノクターンを、ブライアンとハンナが二人がかりで慰めていたことを。
 
 作戦は、開始初日から効果てきめんだった。