君の素直さなんて、
砂浜の上に書いたハートが波に触れるくらい
青くて、切なくて、儚いものだね。
君は素直になるのが得意じゃないのは知っているし、
笑った姿を少しでも見ていたいから、
今日一番いい出来の微笑みを君にあげる。




「手、出すなんて最低だよね」
「だよね。ほら、また本読んでるよ。きっしょ」
 朝香(あさか)と桔花(きっか)が私に向けているかのようにわざとらしく大きな声をだして、ゲラゲラと笑い始めた。私は朝香と桔花の方を見たいのを我慢して、開いたままの文庫本を読んでいるふりをする。
 一体、いつ、どこで、だれが私が紗奈(さな)の彼に手を出したって噂が流れたんだろう。

 私はこの夏、クラスで孤立した。この教室には誰も助けてくれる人なんて存在しない。
 クラスは朝香と桔花の二人で回っているようなものだから、攻撃目標にされた私はクラスの中で生贄みたいなものだった。教室の左側の窓側の隅で男子がiPhoneを片手になにかを撮っているのも見えた。この学校は自由が許され過ぎて、肖像権なんて無いに等しい。

「よく、そんな精神状態で本なんか読むことできるよね」
「朝香、実は天野(あまの)って図太いんじゃない。てか、図太いか。紗奈の男に手出すくらいだもんね。これだけ付き合ってるってわかってるのに」
「大人しいふりして、ちゃっかりしすぎなんだけど」
「あれじゃない? 略奪愛のエロい小説読んでるんじゃない?」
「めっちゃむっつりじゃん。キモ」と朝香がそう言うと、桔花はゲラゲラと笑い始めた。なんだよそれ。てか、図太いのはお前ら二人だし、爽やかな午前中のはずの2校目と3校目の10分休みでそんな話するんじゃねーよ。
 気持ちが暗くなった日曜日、なんとかテンションをあげようと中学生のときから好きだった、蒼衣デルタの新刊を楽しみで買ったのに、全く楽しむことができない。
 そもそも、こいつらは瀬川隼人が教室にいなくなった途端に私のことを攻撃しだす。瀬川隼人と紗奈は付き合っていることは知っている。だけど、私が瀬川隼人と駅のホームで話して、一緒の電車に乗っているところを見られただけみたいなのに、なんでこんなにこの二人のブスに言われなくちゃいけないのかわからない。

 月曜日の午前中、私は教室の中心で自分の席を呪う。
 あと1ヶ月もすれば、夏休みが始まるけど、6月の今、5月病が再発したみたいに私の心は重く憂鬱だった。

 こんな気持ち、中学3年の夏以来だ。まだ卓球少女だった私がダブルスの相手が自然消滅した時期、私は同じように憂鬱になっていた。高校に入って、1年生はそこそこやり過ごすことができ、この調子で2年生も穏やかに過ごそうと思ってたら、とんだとばっちりだ。

 チャイムがなり、急に教室中がバタバタとしはじめたと同時に、几帳面を絵に書いたような、外部講師の安川が入ってきた。私は少しだけ助かったと思った。

「やすっちゃーん、数学の教科書とノート、全部忘れたー。ごめん”さ”な”い!」と私のうしろの方から、男子の声がしたあと、教室中がドッと笑いに包まれた。私は思わずうしろを振り向くと、声の持ち主はすぐにわかった。教室の後ろのドアの前で、瀬川隼人(せがわはやと)が立ったまま片手を上げて、凛々しそうな表情をしていた。
 やる気なさすぎだろー、ネタにしすぎだろーといろんなところから声が聞こえてきた。
 
「おい、人のミスいじるなー。瀬川」
「だって、やすっちゃんが悪いじゃん」と横槍を入れるように桔花がそう言ったあと、
「ごめんさない! うそでーす!」と裏声をひっくり返したようなよくわからない声で、瀬川隼人がそう言うと、なにが面白いのかわからないけど、またクラス中がどっと笑いに包まれた。
 先週、安川が配ったプリントに手書きで追加されていたことに『ここの問題、間違ってました。ごめんさない』と書かれていた。
 『な』と『さ』がそれを発見した瀬川隼人はきっと、テレビのクイズ番組でやっている安っぽい間違い探しとか、きっと得意なんだと思う。というより、きっとそういうことに全人生をかけているんじゃないかって思う。
 そうじゃないと、私がプリントを手渡した瞬間に、そんな細かい間違い発見できるわけがない。

 瀬川隼人はゆっくりと歩き出し、私の後ろの席に座った。
 5月末の席替えは最悪だった。後ろの席にクラスで一番うるさい瀬川隼人が陣取り、私から見て左隣の一番前の席に私に目をつけた朝香が陣取っている。そして、私が目をつけられてからずっと、変な視線を感じる。
 教壇の近くでもあるその席になったとき、朝香は大声でハズレじゃん! って言って、クラス中から笑われていたけど、敵とうるさいやつに挟まれた私の方が今じゃハズレ席じゃんと、この席になった瞬間思った。




 そんなハズレ席で受ける私の貴重で尊いはずの高校2年生の6月20日は終わり、私は誰よりも早く教室を出た。

『きっしょ』
『親友の彼氏に手出すの腹立つんだけど』
『ガチクズじゃん』
『陰キャのくせに何なの、あいつ』
『キツイわ』
『あー、早く消えないかなー』
『それは言い過ぎだって』

 これ以上にたくさんのこと言われたけど、頭の中で言われた言葉が響く。と言っても、本当に私は紗奈の彼に手なんて出していないから、別に深く傷ついているわけじゃない。ただ、毎日のように私のことばかり話ししていて、飽きないのかななんて、毅然としようとクラスの中ではそう決意しているだけだ。
 玄関まで続く、廊下は、まだ人はまばらで、クラスによってはまだホームルームをやっているクラスすらあった。早足で進むたびにその揺れで心も揺れているように感じた。ただ、毅然として、そうした言葉をすべて無視しようと心に決めても、平日になると毎日のように無条件で浴びせられる否定は、徐々に私を疲れさせ、うんざりさせた。

 玄関に着き、上靴を脱ぎ、そしてローファーを取り出し、タイルに二足を落とすと、バンと乾いた音がした。

「あーあ、こんなに雑に扱うなよ」
 うるさいな――。そう思いながら、声がした方を向くと、そこには瀬川隼人が立っていて、右手で小さく手を振っていた。
 私はその姿に普通に腹がたった。





 いつも通り、瀬川隼人と一緒に駅まで行き、同じ方向の電車に乗り込んだ。電車の中の人はまばらで空席だらけだった。瀬川隼人と青いロングシートに横並びで座っているのは、別にいつも通りの日常だ。電車の大きな窓からは黄色い日差しが射し込み、時折、海の青色がちらちらと見えた。

「また、ひどいこと言われてるらしいな」
「誰の所為だと思ってるの」
「人の所為にするなよ」
 バカ明るいクラスの印象と真逆な印象の低い声で瀬川隼人は私にそう返してきた。それで、また瀬川隼人の無責任さに私は余計に腹が立ってしまった。
 バカはバカらしく、バカ笑いしてればいいのに、なんで私といるときだけこんなに間逆なんだろう。
 この現象を例えるなら、合唱コンクールの練習なんて一番最初にサボりそうなやつが、団結に感化されて、みんな真面目にやろうぜ!!! って、真面目系女子のみんな真面目にやってーーーっていうヒステリックよりも、たちが悪い存在になって、ヒステリック女子と感化男子のハーモニーだか、真面目と汗のケミストリーうぜぇって感じになるはずの君がそうなっていない所為で、すごく裏切られた気分に思えるような現象だと思う。

「バカは死なないと治らないんだよ」
「それはお互い様だろ。天野里緒奈(あまのりおな)」
「クラスとキャラ変えすぎなんだよ」
「いいじゃん。バカを演じるのって、疲れるよ。四六時中、あんなことやってたら、マジでダルい」
 低い声でそう続けたあと、瀬川隼人はあからさまに大きなため息を吐いた。

 さらに例えるなら、手拍子の中、裏表紙をついてくるようなこの感じ。そんなことを考えていたら、降りる駅の名前を告げるアナウンスが流れた。

「さて、今日も人手不足の寂れたショッピングセンターに行くか」
 瀬川隼人はダルそうに両腕を上げて、身体を伸ばしていた。
 




 私と瀬川隼人は青いエプロン姿で、レジカウンターの中で突っ立って、蛍の光を聞いていた。月曜日の21時前。21時で閉店するこの小さなショッピングセンターの中にある書店には、もう、お客さんは存在しなかった。
 2台あるレジのうち、一台はレジ締めを終えていて、ドロアーの中にあったお金を片付け終え、黒のプラスチックでできたコインケースをひっくり返している。これでも一応全国チェーン店の書店なのに、未だにこの店にはセルフレジや自動釣銭機付きのレジなんてものはなかった。

「ここにいるところ見られても、付き合ってるとか言われそうだよな」
「それは私が一方的に言われるだけでしょ。瀬川隼人に彼女いる所為で」
「まあな。モテるから、俺」
 小さなボソボソとした声で、瀬川隼人はそう言ったあと、ふふっと小さく笑った。なに浮かれてるんだよとか思ったけど、そんなこと言う気にもなれず、早く時が流れたらいいのにと思った。

 本屋のバイトを始めて1年半の瀬川隼人と、始めて半年の私の高校生二人が閉店作業をすることになった経緯は単純で、人手不足の所為で、めぼしい大人がいないからだった。この店は元々、規模だって大きくないから、店長は隣町にある店舗とこの店の2店舗の兼任店長をしている。しかも、もうひとつの店舗の方がこの店よりも人手不足が深刻らしくて、店長はこの店にあまり店に来ない。

「実は俺たち、上手くいってないんだよね」
 閉店前の急なカミングアウトなんて別に求めてない。
「じゃあ、なんで付き合ってるの?」
「なんでかわからない。別れ話するのが嫌なだけかも」
「意外と度胸ないんだね。バカだからあるのかと思ってた」
「てか、わかるだろ。最近じゃ週6でこの店の夜番させられてたら、そんなの上手くいくわけないじゃん」
「それでもどうにかするのが男でしょ。いくじなし」
「お前さ、俺にストレスぶつけるなよ」
 瀬川隼人がそうぼやいたあと、『ただいまを持ちまして閉店のお時間になりました』と自動アナウンスが流れ始めたから、私はそそくさとレジカウンターを出て、閉店10分前から少しだけセットしていた売り場と通路を仕切る緑色のネットをかけ始めた。
 




「ほら、またエロ小説読んでる。ホント、むっつりだよね」
「だって、顔にでてるじゃん。むっつり感」
 なぜかわからないけど、瀬川隼人は休み時間、必ず教室にいない。10分休憩でも必ずどこかに行く。だから、朝香と桔花の二人は瀬川隼人が教室を出て行った瞬間から、私の悪口を話始める。そんなことをやりはじめてすでに2週間が経っていた。先々週の一週間も悪口を聞き、先週は、日曜日に瀬川隼人と夜番をし、バイト先で蒼衣デルタの新刊を買った。そして、月曜日から悪口を聞き瀬川隼人と夜番をし、火、水と悪口を聞き、木曜日、金曜日に悪口を聞き、瀬川隼人と夜番をした。
 土曜日はイヤホンをつけたまま一日中ベッドに寝転がり、日曜の夜は瀬川隼人と夜番をした。
 そして、月曜日になり、今また悪口を聞いている。

 うんざりしたまま、昼休みを迎えた。朝、ファミマで買ったサンドイッチが入った袋をぶらぶらさせながら、文芸室の部室まで早足で向かった。



 ドアノブをひねり、ドアを引き、文芸部の部室に入ろうとすると後ろから、ドアを抑えられた感触がしたから振り返った。
「密室でふたりきりになったら迷惑なんだけど」
「冷たいこと言わないで一緒に食べよう。あのときみたいに」
 後ろを振り向くと紗奈が右手でドアを抑えて、ニコッとした表情を浮かべていた。紗奈は華奢で、ショートボブが垢抜けて見えた。ドアを抑えている右手の爪にはあわいピンクのネイルが塗られていて、1軍の容姿そのものだった。
 私との過去なんてまるでなにもなかったかのように、普通そうな様子で、そう言ったあと、紗奈は私よりも先に部室に入っていった。だから、私は一応、廊下を見渡して他に人がいないことを確認し、少しだけ安心しながら部室に入った。

 細長い作りの部室には、折りたたみの長テーブルが2つくっついていて、対面で3脚ずつボロボロのパイプ椅子が置いてある。いつもの光景だ。部員は私ともう一人の後輩の女の子2人の3人だけだから、昼休みになると私はこの小さな部室に避難するのが日課になっていた。

「あっつい。この部屋」
「エアコンあるから、少し我慢して」
 そう言って、私はドアの横に掛けられているエアコンのスイッチをオンにした。

「文芸部って、存在したんだ。いつもここでエロい小説読んでるの?」
「は? そういうことわざわざ言いに来たの? それだったら、出ていってよ」
「冗談だよ。そういうつもりで言ったわけじゃないのに。もう」
 紗奈は折りたたみの長テーブルに手に持っていたメロンパンとペットボトルを雑に置き、一番左奥のパイプ椅子を引いて、あーだるって言いながら座った。1年のとき、朝香と桔花とクラスが一緒だったのをきっかけに紗奈は2人と仲良くなったらしい。
 そして、今でもクラスが違うのに朝香と桔花とつるんでいるらしいから、たぶん、私がエロ小説を読んでいるとかそういう余計な情報を紗奈も聞いていたんだと思うとげんなりする。

「ここで食べるつもり?」
「里緒奈と一緒にいるほうが気楽だからね」
 なんで普通に話せるの? なんなの? って次々に言いたいことは出てきたけど、いちいちそんなことを考えるのをやめて、私は紗奈と対角線になるように一番手前にあるパイプ椅子を引いて、座ったあと、ビニール袋からサンドイッチを取り出した。

「ねえ」
「なに?」
「中学校のとき、裏切ってごめんね」
「まだ許してないから」
「――だよね」
 紗奈と私は卓球部でダブルスを組んでいた仲間だったし、小学校のときからの親友だった。1年生からコンビを組み、2年かけてようやく、県大会に出れそうなくらい強くなった。だから、とりあえず中学最後の思い出に県大会は出ようと紗奈と約束をした。
 だけど、3年生になって3週間が経った4月後半から、紗奈は学校に来なくなった。紗奈はクラス替えで最悪のクラスに当たり、クラスが変わって1週間で1軍女子に目をつけられ、簡単にいじめられてしまったのが原因だった。
 
「あの頃、すべてのことが嫌になってた」
 そう言いながら、紗奈はメロンパンの袋を開けて、メロンパンを一口かじって、もぐもぐと口を動かし始めた。
「それは知ってるよ」
 私もサンドイッチの袋を開けて、チーズレタスサンドを1組、右手で取り、一口食べた。噛むたびにレタスのシャキシャキという音が部屋中に響き渡った。

「だよね。――余裕がなかったんだ。全部が絶望のグレーに染まったみたいに」
「私は黒に染まったけどね」
 せめてもの皮肉を返したつもりだ。結局、大会前まで紗奈は学校に来なくて、エントリーしなかった。私は他の子とペアを組む提案を顧問にされたけど、紗奈と約束したのが心残りだったからそれを断り、シングル戦だけ出場した。だけど、ふわふわとした気持ちのまま、試合に挑んだから、当たり前のように1回戦で敗退した。

「あんまりふざけたことされると、腹立つんだけど。高校デビューしたこと言いふらすよ」
 思わず、私は紗奈に対して意地悪なことを言ってしまった。紗奈だって、中学のときは私と同じ陰キャだったのに、私を裏切って、私と同じ高校に入学して、急に1軍みたいな雰囲気になって、実際に一軍のポジションを簡単に手に入れて、そして、朝香と桔花みたいな性格ブスな1軍女子の頂点と仲良くなった。
 だけど、私は知っている。
 元々、紗奈は陰キャだってことを。

「大丈夫、みんなに中学校のときは黒歴史だったって言ってるから。私、頑張って、努力して今の1軍ポジション手に入れてるから、里緒奈とはもう違うの。それに里緒奈はそんなこと、できないって知ってるよ」
 なにそれ。それじゃあ、私との約束なんてなかったみたいじゃん。と思ったけど、なぜか、私はそこまで言い出す気にはなれずに思わず黙ってしまった。

「だけど、今日はそんなこと言いに来たわけじゃないの」
「じゃあ、なに?」
「――ごめんね。約束破って。だから、幸せになってね。あげるから」
 小さい声で紗奈がそう言ったあと、しばらくの間、私がレタスを噛む音と、秒針が進む音しかこの部屋の中には存在しなかった。





☆☆☆前半部分はここまでです☆☆☆

ここまで読んでいただきありがとうございました。
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