真っ黒い炎のような塊がこちらに向かってくる。人とも獣とも違う異形の魔物。真っ黒な炎にみえたのは、その獣が纏う体毛だった。尖った耳に狼のような鼻面。

 二本の脚と長い腕を持つ大の男よりはるかに大きな魔物が、リリシア達の方へずんずんと地面を踏みしめてやってくる。その不気味な怪物の背後には狼が数匹、従うようについてきていた。リリシアの頭の中で警鐘が鳴り響く。

「ひ… 」

 息がうまく吸えなくて、肩がやたらと小刻みに震える。
 御者はよたよたとあとずさり、逃げるのに必死だ。

「あんたがた、早く、早くこっちへ!」
「う、動けないよおっ、」

 リリシアは少年たちを必死で起こそうとしているのだが彼らは恐怖で混乱していて体が動かない。魔物は黒い煙を纏い、どんどん近づいてきた。長い毛むくじゃらの腕の先には、ぎらぎらと鋭い爪が光っている。あれを頭から振り下ろされれば服など通り越して肌を裂かれてしまうだろう。
 
このままではみんな死んでしまう。

 リリシアの視界は恐怖でくにゃりと歪み始めた。足がガクガクと震える。

(しっかりして……!立つのよ)

 彼女は胸のペンダントを固く握りしめた。そして、ぎゅっとくちびるを引き結びすっくと立ち上がった。少年たちの壁となって両手を広げる。
「今のうちに逃げなさい! 二人とも!はやく!」
 リリシアは大きな声で叫び、魔物を睨みつけた。

(怖い……怖くて倒れそう。でも)

 この子たちを逃さなければ。その一心で両足を踏ん張る。魔物がにやりと笑ったように見えた。そして、長い腕がゆっくりと伸びてくる。その瞬間、肩に鋭い痛みが走った。

「……っ」
「リリシアさまっ」

 魔物の長い爪が彼女の肩をかすめたのだ。気づくと目の前に恐ろしい獣の顔がある。それは真っ赤に濁った瞳でリリシアの肩を、首筋を、胸元を、舐めるように確かめて行った。まるで人間のようなその仕草にリリシアはぞっと肌が粟立つのを感じた。

(なにこの生きもの……気持ち、悪い……)

 それでも彼女は勇気を振り絞って立ち続けた。

 もう一歩、異形が近づく。

 その刹那、魔物がぴくりと動きを止めた。一瞬それは怯んだように見えた。すると、リリシアの目の前で雷のような閃光が走った。とたんに魔物はぐらりと体勢を崩しリリシアの視界から消えた。

(な、なに……)

 瞬きするまもないほどの短い間。
 見ると彼女の足元で魔物は背中から血を流しどさりと頽れている。彼女の前には黒い外衣を羽織った剣士が立っていた。