時間が流れるのが遅い一日だった。ようやく訪れた夜に、ロゼッタは胸を撫でおろした。

 孤児院とは違い、ここでは何もすることがなかった。お手伝いしたいといっても、「お嬢様のお手を煩わせるわけにはいきません!」と断られてしまう。
 仕方がなく中庭に出て花を眺めたり、ナナが買ってきてくれた絵本を読んだりして凌いでいたが、退屈すぎて何度か昼寝をしてしまったほどだ。

 さらに悩ましいことに、何をするのにも使用人たちに見られている。
 居間《パーラー》のソファで船を漕げば、待ってましたとばかりに使用人たちが飛んできてブランケットをかけてくれるし、目が覚めたら頬を緩ませた使用人たちに見守られている。ブルーノに至っては、ずっと傍らに立って見つめてくるのだ。
 ダラダラとしている姿をずっと観察されているようで、恥ずかしさのあまり窓から逃げ出したくなった。

(せめて勉強できたらいいんだけど……)

 引き取られた家では家庭教師をつけてもらうこともあった。語学や礼儀作法も少しなら齧っている。ラヴィの話では、ダンテが手配すると言っていたらしい。昨夜宣言した通り、養父としての義務を果たそうとしてくれているようだ。

「旦那様は張り切って先生を選んでいましたよ」
「本当に?」

 そんなわけがない。ラビィはきっと勘違いしてるんだと自分に言って聞かせた。
 昨晩、顔を見るなり笑顔が消えたダンテだ。乗り気で考えてくれているなんて想像もできなかった。

(でも、ありがとうって、言わなきゃいけないわよね……)

 感謝の気持ちを伝えることを忘れないように、と院長から教えられてきた。気が進まなくとも生活を整えてくれたことには感謝しないといけないと思っている。

「ラヴィ、ダンテはいつ帰ってくるの?」
「お嬢様が眠っているころになりますわ。先に寝るよう言伝をいただきましたので気になさらないでくださいませね」

 ダンテはだいたい夜遅くに帰ってくる。仕事が忙しかったり、人づきあいで食事に行ったり、はたまた女性と遊んだりして帰ってくるのが遅い。

 これから顔を合わせることはあまりないかもしれない。
 安心するような、寂しいような、複雑な気持ちになった。会えない方があの忌々しいものを見るような表情を目にしなくて済むかもしれないが、形式だけであったとしてもダンテは家族だ。全く会えないとなると、さすがに寂しく思えた。

「わかったわ……ねえ、紙とペンってある?」
「ありますよ。お持ちしますね」

 顔を合わせられないなら手紙を渡そう。
 簡単な綴りなら書ける。綺麗な文字になるよう慎重に書いていると、後ろで覗き込んでいるラヴィから「素敵!」とか「とても綺麗な字ですわ!」と声が上がる。

「旦那様はきっとお喜びになりますわ!」
「そんなことないわ」

 そう言いつつも、もしかしたらと期待してしまう。
 これまで何度も義理の家族に捨てられても、もう誰にも引き取られないと心に誓っても、家族に憧れてしまうロゼッタ。淡い期待を胸に、手紙をラヴィに預けた。

 夕食も見守られながら1人で食べたロゼッタは、そのままナナたちに湯あみしてもらう。
 これがまた慣れなくて、洗ってもらっている間ずっと身を縮こませてしまった。
 自分でできるのに、と独りごちる。

「まあまあ、珍しく早いお帰りね」

 髪の毛を乾かしてもらっているうちにダンテが帰ってきたようだ。ラヴィがパタパタと部屋から出て行った。

「今日は早いの? 外は真っ暗なのに?」
「ええ、旦那様はもっと真っ暗な時か、次の日に帰ってくることもありますよ」

 次の日に帰ってくると聞いて驚くロゼッタ。お喋り好きのナナだが、さすがにダンテの女性関係のことは言わなかった。旦那様はお忙しいのですよと付け加える。

(帰ってきたなら、言いに行った方が良いわよね……)

 きゅっと拳を握る。
 大丈夫、お礼を言うだけだ。言ったらすぐに部屋を出よう。

「ね、ねぇ、ブルーノ。ダンテのところに連れてって」
「……」

 返事はなかったが、すぐに抱き上げて部屋の前まで連れて行ってくれた。当主の寝室なだけあって扉が大きい。
 
 ブルーノがノックして二言三言ほど伝えると、中に入るように指示があった。開けてもらって、恐る恐る足を踏み入れる。

 部屋の中は意外にも物が少なかった。ロゼッタの部屋よりも飾り気がない。赤い壁紙に赤い絨毯は同じだが、調度品は黒に近い色の木でできており、重厚感がある。

「何の用だ?」

 着替えたばかりのダンテと目が合う。
 仕事があったため髪は撫でつけており、昨晩会った時とは違う雰囲気だ。品があり、いかにも重鎮らしい風格が漂っている。

「おかえりなさい」
「もう寝ろ。遅くまでうろつくな」

 射抜くような視線がロゼッタを捕らえる。

(まただわ。睨むほど嫌いなら、引き取らなかったら良かったのに)

「ありがとうって言いにきたのよ!」

 ぶっきらぼうに言い返すと、相手は虚を突かれた表情になった。思いもよらない反応にドキリとするが、すぐにまた眉根を寄せて顔を顰めてきた。

「それだけか?」

 心無い一言に、胸がツキンと痛んだ。
 笑顔で応えてくれるだなんて期待はしていなかったが、迷惑そうにあしらわれるとさすがに辛い。

「そうよ! 迷惑ならもう言いに来ないわ!」

 キッと睨み、大股で部屋を出て行くと、勢いよく扉を閉めた。

(それだけかですって?! もうなにがあってもありがとうって言わないんだから!)

 ダンテへの評価が音を立てて下がってゆく。
 
 扉の側で控えていたブルーノは、ぷりぷりと怒るロゼッタを抱き上げ、宥めるように背中を撫でた。

「律儀なものだな」

 ダンテは勢いよく閉まった扉を見て、クツクツと喉で笑った。先ほどまでとは打って変わって穏やかな表情だ。

「気が強くて真っ直ぐで、損をしそうだ」
「旦那様、お嬢様にはもっと優しくしてあげてくださいませ」

 一連の様子を見守っていた執事頭のカストはいたたまれない気持ちで主人を睨んだ。この捻くれ者の主人に連れてこられてしまった少女に同情してしまう。
 愛情に飢えているはずなのに、妻も子どももいたことがない男に引き取られてしまったのだから。

 今日一日で彼女には好感を持てた。
 可憐な容姿に強く真っ直ぐな瞳を持っており、目を見張る存在感がある。
 主人の前では反抗的な態度だが、使用人たちには我儘を言わないし手伝おうとさえする。それなのに、子どもの扱いを知らない主人の態度は冷たい。

「自分でもどうしたら良いかわからないんだ」

 胸ポケットから、折り畳んだ手紙を取り出す。ロゼッタからの手紙に、そっとキスした。

 あの珊瑚色の瞳を見てから、どうも調子が狂ってしまう。別に子どもが嫌いというわけではない。原因は恐らく、あの瞳だ。魅了してきて心を乱してくる、あれのせいだ。
 
「だから、みんなはできる限り甘やかしてやってくれ」

 丁寧に手紙を折ると、またポケットの中にしまった。