夏の明るい夕空を駆けるグリフォンの馬車の中で、少し眠ってしまっていた。
御者がコンコンと窓を叩いて「もうすぐでファビウス邸ですよ」と伝えてくれたおかげで目を覚ます。
起きるとジルが膝の上に乗っており、顔を上げて心配そうに私の顔を見つめる。
「……私は大丈夫よ」
「うそつけ。昨夜もまた泣いていただろ」
そう言うジルだって元気がない。
だけど言い返すこともできなくて、そっとジルの頭を撫でた。
学園祭からひと月経った。
ノエルは全く目を覚まさなくて、ファビウス邸で眠ったままの状態だ。
原因はドーファン先生の魔術のせいで無理やり魔力を引き剥がされそうになった後遺症と、強力な魔法を使った反動が同時に出たからだそうだ。
生きているのが不思議なくらいだと、ノエルを診たジスラン様が零した。
そして、いつ目を覚ますのかわからないとも、言われている。
だから私は毎日、放課後になるとファビウス邸に通っている。
ノエルが目を覚ました時に、寂しい思いをしないように。
◇
馬車を降りるとお義母様が出迎えてくれた。
お義母様もすっかりやつれてしまって元気がないけれど、それでも私が会いに行くと少しは明るくなるからといって、使用人たちから頼まれて、いつもファビウス邸で夕食をとっている。
「ノエルは今日もレティシアさんを待ってるわ」
「私が来ている事なんて知らずに寝てますのに」
「いいえ、レティシアさんが会いに来てくれた後はノエルの寝顔が穏やかになってる気がしますの」
気休めか、あるいはお義母様はそうやって、ノエルに変化があると信じたいのかもしれない。
曖昧に返事をしつつ、ノエルの寝室に通してもらった。
ベッドの上で眠っているノエルはスヤスヤと寝息を立てていて、熟睡しているように見える。その近くではミカが控えていて、私を見ると「レティシア様。本日もお疲れ様でした」と言って尻尾を振ってくれた。
「ミカ、今日のノエルはどうだった?」
「いつも通り、ぐっすり休んでおられます」
「……そう。ノエルはずっと働き詰めだったものね。しっかり休んだ方が、いいわよね」
いまはただ体を回復させるために寝ているだけで、いつかきっと目覚めるはず。
そう何度も自分に言い聞かせてきたけど、変わりないノエルの様子を聞くたびに、どこか絶望して、擦り減ってしまう自分がいる。
どの治癒師に頼んでも、サラやグーディメル先生の力に頼ってみても、ノエルは起きてくれなかった。
だけど救いだったのは、ダルシアクさんから「闇の王は穏やかな夢を見ている」と教えてくれたことだ。
ダルシアクさんがお見舞いに来た時にノエルの夢を見てくれて、それを聞いた時には安心した。
「ノエル、今日はどんな夢を見ているの?」
ベッドの傍にある椅子に座ってノエルに話しかけてみるけど、いつも通り、返事はない。
髪を梳き流して、頬に触れて、手を握る。
反応が返ってくるかもしれないと淡い期待を抱きながら触れるけど、ノエルの手は全く動かなくて。
「……早く、起きてよ」
情けないくらい拗ねた声が自分の喉から出てきて、もう限界なんだと思い知らされる。
ノエルと話したい。
ノエルの紫水晶のような瞳に見つめられながら、あの低くて穏やかな声を聴きたい。
抱きしめたいし、抱きしめられたい。
手を繋いで、出かけたい。
新しいケーキを食べさせてあげたいし、ノエルが好きな紅茶を飲んでもらいたい。
なにより、ノエルにまた、「愛している」と言って欲しいし、私も「愛している」と伝えたい。
だって私はまだ、ノエルに言い足りないから。
ノエルが言ってくれた以上に、「愛してる」と伝えられていない。
伝えられないままなんて、嫌だ。
早くノエルに伝えたいのに、どうして起きてくれないのよ?
「ノエル、寝坊が過ぎるわよ」
私の心配なんて全く気にしないでスヤスヤと眠っているのが憎らしいけれど、それでも悪夢を見て欲しくないから、穏やかに眠っていられるようにノエルの頭を撫でた。
サラサラの髪が揺れるたびに、ファビウス侯爵家で使っているシャンプーの良い香りがする。
ほんの少し、ノエルの口元が微かに綻んだ気がした。
私もお義母様と同様で、微かな変化を期待してしまっているのかもしれない。
自虐的な笑みを浮かべつつノエルの手を取って、握りしめた。
「ノエル、早く起きてくれないと寂しくてしかたがないわ」
いつも顔を合わせていたノエルの存在が、私の中では当たり前で、日常で、かけがえのないもので。
だけど恥ずかしいことに、ノエルが眠りについて初めてそのことに気づかされた。
「あのね、ふとした時にノエルに伝えたくなるのよ。お昼に食べたご飯が美味しかったとか、バルテさんがふざけて噴水に落ちたとか、季節の花の匂いがしてきたとか、そういうこと、ノエルと共有したいのにできなくて、胸が苦しいの」
これまで当たり前にできていたことだから気づかなかった。
とりとめもないことを共有できるのがどんなに幸せなことなのかということと、伝えられるありがたさを、わかっていなかった。
一番にノエルに伝えたい。
ノエルじゃなきゃ、嫌だ。
微笑みながら話を聞いてくれるノエルの表情を思い出すと、視界が滲んで、目の前の景色がぐしゃぐしゃになる。
「ノエル、愛しているわ」
しんとした室内に虚しく自分の声がこだまして、耐えられなくなってベッドに伏せた。
「愛してる、愛してる、愛してる、……ノエルと話したくてしかたがないから、早く目を覚まして」
しゃっくりをあげてみっともないくらいに喚いていると、ポンポンと柔らかく頭を叩かれる。
ジルかミカかもしれない。
そう思って涙を拭って顔を上げると、するりと頬に手が添えられた。
長い指がゆっくりと動いて、涙の痕を辿る。
「え?」
パチパチと目を瞬かせると、視界がはっきりとして、じっとこちらを見つめる紫水晶の瞳と視線が絡み合った。
「……寝てる時に愛してるだなんて言わないでくれ。レティの顔を見ながら聞きたいのに」
「ノエル!」
嬉しさのあまりノエルに抱きつくと、ノエルがむせてしまう。
ジルとミカが慌てて人間の姿になってノエルを介抱する。ジルには、「ご主人様を襲うな!」と怒られてしまった。
「ご、ごめん。ノエルがひと月も眠っていたから、起きてくれたのが嬉しくて、つい……」
そっと離れると、ノエルに手を引かれてまたノエルの胸に飛び込む。おまけに背中に手がまわされて、全く身動きが取れない。
「それじゃあ、ひと月分のレティを補わせて」
ノエルの手はするりと髪留めを外してしまって、肩にかかる髪を優しく梳き流す。
規則的に脈打つノエルの心臓の音と、バクバクと忙しなく脈を打つ自分の心臓の音が同時に聞こえてきた。
まだまだ足りないと言わんばかりにノエルは頬擦りをしたり頭にキスしてくれるけど、私は供給過多で死にそうだ。
しかも間が悪いことに、トントンとドアをノックする音が聞こえてくる。
こんな姿を見せてはいけないと思って起き上がろうとするのに、ノエルが腕の力を緩めてくれなくて起き上がれない。
そのまま扉が開いてしまった。
「レティシアさん、クライブが帰ってきたから夕食に――」
入ってきたのはお義母様で、こちらを見て瞠目した。
言いかけていた言葉は喉の奥へと消えてしまい、しばしの沈黙が流れる。
「ノ、ノエル?! あなた、おきっ……起きたのね?!」
「たったいま起きました。しばらくレティを堪能したいので夕食はこちらで食べようと思います」
「ええ、ええ、もちろんよ! 二人分ここに運ぶように伝えるわっ!」
お義母様はすぐさま踵を返して廊下に出て行ってしまう。
「ぃやったわぁぁぁぁ! クライブッ! ノエルが起きたわよぉぉぉぉっ!」
それと同時に、廊下からお義母様の歓喜の叫び声が聞こえてきた。
それはそれは貴婦人らしからぬ、お屋敷中に響き渡る叫び声だった。
「母上のあんな声、生まれて初めて聞いたよ」
「それぐらいノエルのことを心配していたのよ。お義父様もお義母様も、時間さえあればノエルに話しかけていたんだから」
「……そう、なのか」
「ええ、そうよ」
するとノエルはふにゃりと笑って、喜びを分けてくれるかのように優しく、私の頬にキスを落とした。
御者がコンコンと窓を叩いて「もうすぐでファビウス邸ですよ」と伝えてくれたおかげで目を覚ます。
起きるとジルが膝の上に乗っており、顔を上げて心配そうに私の顔を見つめる。
「……私は大丈夫よ」
「うそつけ。昨夜もまた泣いていただろ」
そう言うジルだって元気がない。
だけど言い返すこともできなくて、そっとジルの頭を撫でた。
学園祭からひと月経った。
ノエルは全く目を覚まさなくて、ファビウス邸で眠ったままの状態だ。
原因はドーファン先生の魔術のせいで無理やり魔力を引き剥がされそうになった後遺症と、強力な魔法を使った反動が同時に出たからだそうだ。
生きているのが不思議なくらいだと、ノエルを診たジスラン様が零した。
そして、いつ目を覚ますのかわからないとも、言われている。
だから私は毎日、放課後になるとファビウス邸に通っている。
ノエルが目を覚ました時に、寂しい思いをしないように。
◇
馬車を降りるとお義母様が出迎えてくれた。
お義母様もすっかりやつれてしまって元気がないけれど、それでも私が会いに行くと少しは明るくなるからといって、使用人たちから頼まれて、いつもファビウス邸で夕食をとっている。
「ノエルは今日もレティシアさんを待ってるわ」
「私が来ている事なんて知らずに寝てますのに」
「いいえ、レティシアさんが会いに来てくれた後はノエルの寝顔が穏やかになってる気がしますの」
気休めか、あるいはお義母様はそうやって、ノエルに変化があると信じたいのかもしれない。
曖昧に返事をしつつ、ノエルの寝室に通してもらった。
ベッドの上で眠っているノエルはスヤスヤと寝息を立てていて、熟睡しているように見える。その近くではミカが控えていて、私を見ると「レティシア様。本日もお疲れ様でした」と言って尻尾を振ってくれた。
「ミカ、今日のノエルはどうだった?」
「いつも通り、ぐっすり休んでおられます」
「……そう。ノエルはずっと働き詰めだったものね。しっかり休んだ方が、いいわよね」
いまはただ体を回復させるために寝ているだけで、いつかきっと目覚めるはず。
そう何度も自分に言い聞かせてきたけど、変わりないノエルの様子を聞くたびに、どこか絶望して、擦り減ってしまう自分がいる。
どの治癒師に頼んでも、サラやグーディメル先生の力に頼ってみても、ノエルは起きてくれなかった。
だけど救いだったのは、ダルシアクさんから「闇の王は穏やかな夢を見ている」と教えてくれたことだ。
ダルシアクさんがお見舞いに来た時にノエルの夢を見てくれて、それを聞いた時には安心した。
「ノエル、今日はどんな夢を見ているの?」
ベッドの傍にある椅子に座ってノエルに話しかけてみるけど、いつも通り、返事はない。
髪を梳き流して、頬に触れて、手を握る。
反応が返ってくるかもしれないと淡い期待を抱きながら触れるけど、ノエルの手は全く動かなくて。
「……早く、起きてよ」
情けないくらい拗ねた声が自分の喉から出てきて、もう限界なんだと思い知らされる。
ノエルと話したい。
ノエルの紫水晶のような瞳に見つめられながら、あの低くて穏やかな声を聴きたい。
抱きしめたいし、抱きしめられたい。
手を繋いで、出かけたい。
新しいケーキを食べさせてあげたいし、ノエルが好きな紅茶を飲んでもらいたい。
なにより、ノエルにまた、「愛している」と言って欲しいし、私も「愛している」と伝えたい。
だって私はまだ、ノエルに言い足りないから。
ノエルが言ってくれた以上に、「愛してる」と伝えられていない。
伝えられないままなんて、嫌だ。
早くノエルに伝えたいのに、どうして起きてくれないのよ?
「ノエル、寝坊が過ぎるわよ」
私の心配なんて全く気にしないでスヤスヤと眠っているのが憎らしいけれど、それでも悪夢を見て欲しくないから、穏やかに眠っていられるようにノエルの頭を撫でた。
サラサラの髪が揺れるたびに、ファビウス侯爵家で使っているシャンプーの良い香りがする。
ほんの少し、ノエルの口元が微かに綻んだ気がした。
私もお義母様と同様で、微かな変化を期待してしまっているのかもしれない。
自虐的な笑みを浮かべつつノエルの手を取って、握りしめた。
「ノエル、早く起きてくれないと寂しくてしかたがないわ」
いつも顔を合わせていたノエルの存在が、私の中では当たり前で、日常で、かけがえのないもので。
だけど恥ずかしいことに、ノエルが眠りについて初めてそのことに気づかされた。
「あのね、ふとした時にノエルに伝えたくなるのよ。お昼に食べたご飯が美味しかったとか、バルテさんがふざけて噴水に落ちたとか、季節の花の匂いがしてきたとか、そういうこと、ノエルと共有したいのにできなくて、胸が苦しいの」
これまで当たり前にできていたことだから気づかなかった。
とりとめもないことを共有できるのがどんなに幸せなことなのかということと、伝えられるありがたさを、わかっていなかった。
一番にノエルに伝えたい。
ノエルじゃなきゃ、嫌だ。
微笑みながら話を聞いてくれるノエルの表情を思い出すと、視界が滲んで、目の前の景色がぐしゃぐしゃになる。
「ノエル、愛しているわ」
しんとした室内に虚しく自分の声がこだまして、耐えられなくなってベッドに伏せた。
「愛してる、愛してる、愛してる、……ノエルと話したくてしかたがないから、早く目を覚まして」
しゃっくりをあげてみっともないくらいに喚いていると、ポンポンと柔らかく頭を叩かれる。
ジルかミカかもしれない。
そう思って涙を拭って顔を上げると、するりと頬に手が添えられた。
長い指がゆっくりと動いて、涙の痕を辿る。
「え?」
パチパチと目を瞬かせると、視界がはっきりとして、じっとこちらを見つめる紫水晶の瞳と視線が絡み合った。
「……寝てる時に愛してるだなんて言わないでくれ。レティの顔を見ながら聞きたいのに」
「ノエル!」
嬉しさのあまりノエルに抱きつくと、ノエルがむせてしまう。
ジルとミカが慌てて人間の姿になってノエルを介抱する。ジルには、「ご主人様を襲うな!」と怒られてしまった。
「ご、ごめん。ノエルがひと月も眠っていたから、起きてくれたのが嬉しくて、つい……」
そっと離れると、ノエルに手を引かれてまたノエルの胸に飛び込む。おまけに背中に手がまわされて、全く身動きが取れない。
「それじゃあ、ひと月分のレティを補わせて」
ノエルの手はするりと髪留めを外してしまって、肩にかかる髪を優しく梳き流す。
規則的に脈打つノエルの心臓の音と、バクバクと忙しなく脈を打つ自分の心臓の音が同時に聞こえてきた。
まだまだ足りないと言わんばかりにノエルは頬擦りをしたり頭にキスしてくれるけど、私は供給過多で死にそうだ。
しかも間が悪いことに、トントンとドアをノックする音が聞こえてくる。
こんな姿を見せてはいけないと思って起き上がろうとするのに、ノエルが腕の力を緩めてくれなくて起き上がれない。
そのまま扉が開いてしまった。
「レティシアさん、クライブが帰ってきたから夕食に――」
入ってきたのはお義母様で、こちらを見て瞠目した。
言いかけていた言葉は喉の奥へと消えてしまい、しばしの沈黙が流れる。
「ノ、ノエル?! あなた、おきっ……起きたのね?!」
「たったいま起きました。しばらくレティを堪能したいので夕食はこちらで食べようと思います」
「ええ、ええ、もちろんよ! 二人分ここに運ぶように伝えるわっ!」
お義母様はすぐさま踵を返して廊下に出て行ってしまう。
「ぃやったわぁぁぁぁ! クライブッ! ノエルが起きたわよぉぉぉぉっ!」
それと同時に、廊下からお義母様の歓喜の叫び声が聞こえてきた。
それはそれは貴婦人らしからぬ、お屋敷中に響き渡る叫び声だった。
「母上のあんな声、生まれて初めて聞いたよ」
「それぐらいノエルのことを心配していたのよ。お義父様もお義母様も、時間さえあればノエルに話しかけていたんだから」
「……そう、なのか」
「ええ、そうよ」
するとノエルはふにゃりと笑って、喜びを分けてくれるかのように優しく、私の頬にキスを落とした。



