【電子書籍化】このたび、乙女ゲームの黒幕と婚約することになった、モブの魔法薬学教師です。

 ジルとミカは元の姿に戻ってからも震えていて、その様子はいたいけでかわいそうだ。
 そもそも、人間の姿をしただけで怒るなんて理不尽だと思うわ。見損なったわよ、ノエル。

「ジルとミカはなにも悪くないわ。理不尽に怒るなんて主人失格よ!」
「……っ」

 捲し立てるように言うと、ノエルは勢いに押されたようで、バツが悪そうに下を向いた。こんな反応をされると思わなかったから面食らってしまう。
 するとミカが私たちの間に割って入る。ノエルの前に立って、彼を庇うようにする姿は忠犬だ。正しく言うと、ミカはクーシーという妖精の一種で、犬ではないんだけど。
 わけもなく怒りをぶつけられたというのに、健気にもノエルを擁護しようとするなんて涙ぐましい。

「レティシア様、ご主人様は気が動転していただけですのでどうかお怒りを鎮めてくださいませ」
「ミカは人がよすぎるわ」

 今後はこんなことがないようにもっと強く言っておきたかったけど、耳を下げて懇願されると怒る気力も失せてしまう。
 それに、ノエルもすっかりしょげてしまって反省しているようだから、まあ、よしとしよう。

「ノエル、これからはミカたちを大切にしてね」

 するとノエルは「ああ、」と言ってジルとミカの頭を撫でた。

「すまなかった。どうかしていたよ」

「お気になさらず。私たちはご主人様に十二分に大切にしていただいていますよ」
「ご主人様、俺様たちで力を合わせて小娘を守りました!」

 ジルは謝罪よりも褒めて欲しいようで、しっぽをぴんと上に向けてノエルの足元をうろうろしている。理不尽に怒られたのに、ささいなことだと許せる間柄なんだろう。その表情を見ていると、強い絆で結ばれているのがよくわかる。

 二人に謝ったノエルは、私の顔色を窺うように振り返る。
 それが、まるで捨てられた動物のような表情で、思わず笑ってしまった。叱られた後のエメにも似ているわね。

「よくできました」

 ふざけてノエルの頭を撫でてみる。エメにするように、もう片方の手を背中に回してポンポンと叩いてみると、ノエルがそっと体重をかけて抱きしめ返してきたものだから、心臓が跳ねた。
 いつもはじっと撫でられているノエルが、まさかこんなことをしてくるなんて思わなかったから。

 背の高さも、背中に触れる掌の大きさも、抱きしめる腕の力も大人の男性のもので。
 エメだってこうした時は抱きしめ返してくれるけど、ノエルが同じことをするとなにかが違っていて。

 当たり前のことだけど、五歳児とは違うのだと、改めて実感させられた。 
 そんな現実に当惑していると、頭上からクスクスと笑い声が降ってくる。

「急に大人しくなったね?」
「っ気のせいよ」

 弱々しい顔をしていたノエルはどこに行ったのやら。蠱惑的な笑みを浮かべて顔を覗き込んでくる。
 間近に迫る顔は改めて見ると端正な顔立ちだなと、こちらもまた気づかされてしまい、なぜか頬が熱くなった。

 逃げるように離れてノエルの紅茶を用意していると、後ろからノエルの鼻歌が追いかけてくるような気がした。

   ◇

 今日はまだ暑いから、柑橘系の香りがする紅茶を淹れてあげてノエルの前に置いた。

「どうぞ」
「ありがとう」

 ノエルは鞄から本を取り出す。取り出した本から小さな紙切れがはみ出していて、ノエルはそれを取り出して表紙の上に置いた。
 なにやら文字を書きつけているその紙に、どうしてか吸い寄せられるように視線が向く。
 書かれている文字を見て、疑問が口をついて出て来た。

「へ?」

 紙には日本語が書かれていた。
 それも、”黒幕”なんて書いてある。

 書き慣れていない人が書いたようで形は歪だけど、しっかりと読める。

「レティシア、この言葉の意味を知ってるのか?」

 はっと気づいて視線を上げると、ノエルの瞳がじっと私を見ていて。
 探るような視線に内心狼狽えた。

「う、ううん。珍しい文字だね。どうしたの?」
「……わけがあって調べているんだ。なにが書かれているのか知りたくてね」
「どうして?」
「どうしてだと思う?」
「わっ、わからないわよ」

 ノエルがこの文字を調べる意図は、むしろ教えて欲しいくらいだ。
 そもそもこの世界に日本語なんてない。似た言葉もないはず。それなのにノエルがこの紙を持っているのが不思議でしかたがない。

「レティシアは見覚えがあるかもしれないと思ったんだけど」
「どういう根拠で言っているのよ。全く知らないわ」
「本当に? さっきなにか知っていそうな顔していたけど?」

 完全に油断していた。
 あの一瞬でノエルにそう判断させてしまったんだ。

 毎日一緒にいるうちに友だちのような感覚になって麻痺していたけど、ノエルはほんの些細なことからでも人の心を見抜く洞察力を備えているんだから、下手な芝居では気づかれてしまう。

 冷静に。
 冷静に。
 冷静に。

 未知の文字と遭遇した気持ちを前面に出して乗り越えるのよ。
 心の中でそう唱えて落ち着かせた。

「本当よ。見たこともない文字だから気になっただけよ」
「……話せるほどは信じていない、か」

 小さな声で紡がれた呟きははっきりとは聞き取れず。

「え?」
「なんでもない」

 聞き返しても教えてくれなかった。