◇
初めてレティシアの頬に触れた感触を、永遠に忘れることはないだろう。
驚いた後に頬を赤くした彼女の顔もまた、忘れられない。
思いがけない収穫を得られたおかげで昼間に抱いていた焦燥は和らいだ。
少しは意識してくれただろうか、とレティシアの反応を見て期待してしまう僕はまだ、彼女に振り回されている。
◇
応接室にはアルシェ卿とビゼー卿の二人が残り、すでに準備はできていた。
アルシェ卿は僕の姿を認めると、レティシアと同じ栗色の瞳を細めて、隣の席を進めてくれる。
「ノエル、お望みの挨拶はできたかい?」
「残念ながら。まだアルシェ卿や家族のようにはしてくれません」
「焦ることはない。レティは恥ずかしがり屋だからまだ思いきれないのさ。君のことを特別大切に想っているのには違いないよ。それに、私たちはもう家族だ」
この人もまたレティシアと同じように、温かく優しく、迎え入れてくれる。
家族だ、とはっきりと伝えてくれた彼の言葉に、表しようもない喜びで心が震えた。
「あ、次期侯爵の君を勝手に呼び捨ててしまって申し訳ない。弟ができたのが嬉しくて調子に乗ってしまったよ」
眉尻を下げて後ろ首をかく姿は、彼の人柄を表している。
温和で人を想う彼を見て育ったからこそ、レティシアは生徒たちを一番に考える教師になったのかもしれない。
そんなアルシェ卿が心から歓迎してくれているからこそ、彼の言葉は素直に受け取ることができた。
「これまで兄弟がいなかったので嬉しいです。お義兄様と呼んでも?」
「ぜひそう呼んでくれ」
お義兄様は柔らかく微笑み、レティシアを見つめていた時と同じ眼差しを、僕にも向けてくれた。すると、ビゼー卿が「家族が増えるっていいですね」と言って拍手をする。
その顔には嫌味もなく、ただ純粋に祝ってくれているのは伝わってくるが、レティシアの片想いの相手だとわかっている以上、素直に喜べない自分がいる。
一方でビゼー卿は拍手をしていた手を顎に当てて頭を捻り、なにかを思い出そうとする素振りを見せた。
「それにしても、レティシアはしばらく会わないうちに変わりましたね。以前は落ち着いて静かな印象でしたが、いまは別人のように活動的になっていたものですから、驚きました」
なるほど、幼馴染のビゼー卿にとってもいまのレティシアは変わってしまったように見えるのか。
たまにしか顔を合わせることがなかった僕でさえそう思ったのだから、彼からするとなおさら、その変化に驚いただろう。
「彼女になにがあったんですか?」
お義兄様に聞いてみると、彼は視線を泳がせる。
すこし躊躇っていたが、隠すことなく経緯を教えてくれた。
「じつはさっき話していた、レティが酔っぱらって階段から転げ落ちたときのことなんだけど、その時にレティは頭を打ってしまってね。それから眠ったきりでなかなか目を覚まさないし、起きたら別人のように明るくなっていたしで、私たちはそれはそれは、困惑したんだ」
頭を強く打ったから人格が変わったということか。
なんとも信じ難い話だが、レティシアの変わりようを見ると納得する。
レティシアには申し訳ない話だが、もしかするとそのおかげで彼女と婚約できたのかもしれない、と彼女を襲った不運に感謝してしまう。
そうでなければ、彼女から声をかけてくれることはなかっただろから。
しかしそうなると一つ、心配事がある。
「レティシアは人格が変わったままということですか?」
もし彼女が元の人格に戻ったら、僕たちの関係はどうなるのだろうか?
避けられるか、もしくはよそよそしく接するようになってしまったら、耐えられそうにない。
すると、そんな不安を吹き飛ばすように、お義兄様は明るく笑った。
「いいや。おそらくだけど、レティは別人のように見えるけど、違う人格になってしまったわけじゃないと思うんだ。吹っ切れて、新しい一歩を踏み出したんだよ。本質的には変わってないってわかるんだ」
レティシアが生まれた時から彼女を見てきたお義兄様が言うのであれば、信じられる。
最悪の事態の可能性が薄れて安堵した。
「小さい頃のレティの話が気になるだろう? 教えてあげるから、また遊びに来てくれるといい」
「ありがとうございます。ぜひとも聞かせてください」
まだまだ知らないことばかりで、もっと知り尽くしたくてならない。
それと同時に、なにがあっても守りたいと、思っている。
だからビゼー卿と会わせてもらうために、お義兄様に手紙を書いた。
レティシアの片想いの相手と知っていて、彼をレティシアに近づけたくはなかったが、守るためならやむを得ない。
この機会を逃さないように、自分の気持ちを抑えて彼を呼んだ。
「さて、それではノエルが手紙をくれた件について、話を始めるとしよう」
お義兄様が話を切り出すと、ビゼー卿は待ってましたといわんばかりに手に持っていたグラスをテーブルの上に置いた。
「そうですね。魔性の貴公子と名高いファビウス卿からのご指名を受けて馳せ参じたんですから」
そう話すビゼー卿からは好意的な雰囲気を感じ取れる。
正義感が宿る瞳を持つビゼー卿はひと目見て、国王側の人間ではないのがわかる。おまけに彼は騎士団に所属する治癒師で、顔が広く信頼も厚い。
仲間にできたら心強いだろう。
彼を通して騎士団の内情を探れるはずだ。
国王が不穏な動きをしている以上、万全の準備をして迎え撃たなければならない。
レティシアだけは、奪われたくないから。
初めてレティシアの頬に触れた感触を、永遠に忘れることはないだろう。
驚いた後に頬を赤くした彼女の顔もまた、忘れられない。
思いがけない収穫を得られたおかげで昼間に抱いていた焦燥は和らいだ。
少しは意識してくれただろうか、とレティシアの反応を見て期待してしまう僕はまだ、彼女に振り回されている。
◇
応接室にはアルシェ卿とビゼー卿の二人が残り、すでに準備はできていた。
アルシェ卿は僕の姿を認めると、レティシアと同じ栗色の瞳を細めて、隣の席を進めてくれる。
「ノエル、お望みの挨拶はできたかい?」
「残念ながら。まだアルシェ卿や家族のようにはしてくれません」
「焦ることはない。レティは恥ずかしがり屋だからまだ思いきれないのさ。君のことを特別大切に想っているのには違いないよ。それに、私たちはもう家族だ」
この人もまたレティシアと同じように、温かく優しく、迎え入れてくれる。
家族だ、とはっきりと伝えてくれた彼の言葉に、表しようもない喜びで心が震えた。
「あ、次期侯爵の君を勝手に呼び捨ててしまって申し訳ない。弟ができたのが嬉しくて調子に乗ってしまったよ」
眉尻を下げて後ろ首をかく姿は、彼の人柄を表している。
温和で人を想う彼を見て育ったからこそ、レティシアは生徒たちを一番に考える教師になったのかもしれない。
そんなアルシェ卿が心から歓迎してくれているからこそ、彼の言葉は素直に受け取ることができた。
「これまで兄弟がいなかったので嬉しいです。お義兄様と呼んでも?」
「ぜひそう呼んでくれ」
お義兄様は柔らかく微笑み、レティシアを見つめていた時と同じ眼差しを、僕にも向けてくれた。すると、ビゼー卿が「家族が増えるっていいですね」と言って拍手をする。
その顔には嫌味もなく、ただ純粋に祝ってくれているのは伝わってくるが、レティシアの片想いの相手だとわかっている以上、素直に喜べない自分がいる。
一方でビゼー卿は拍手をしていた手を顎に当てて頭を捻り、なにかを思い出そうとする素振りを見せた。
「それにしても、レティシアはしばらく会わないうちに変わりましたね。以前は落ち着いて静かな印象でしたが、いまは別人のように活動的になっていたものですから、驚きました」
なるほど、幼馴染のビゼー卿にとってもいまのレティシアは変わってしまったように見えるのか。
たまにしか顔を合わせることがなかった僕でさえそう思ったのだから、彼からするとなおさら、その変化に驚いただろう。
「彼女になにがあったんですか?」
お義兄様に聞いてみると、彼は視線を泳がせる。
すこし躊躇っていたが、隠すことなく経緯を教えてくれた。
「じつはさっき話していた、レティが酔っぱらって階段から転げ落ちたときのことなんだけど、その時にレティは頭を打ってしまってね。それから眠ったきりでなかなか目を覚まさないし、起きたら別人のように明るくなっていたしで、私たちはそれはそれは、困惑したんだ」
頭を強く打ったから人格が変わったということか。
なんとも信じ難い話だが、レティシアの変わりようを見ると納得する。
レティシアには申し訳ない話だが、もしかするとそのおかげで彼女と婚約できたのかもしれない、と彼女を襲った不運に感謝してしまう。
そうでなければ、彼女から声をかけてくれることはなかっただろから。
しかしそうなると一つ、心配事がある。
「レティシアは人格が変わったままということですか?」
もし彼女が元の人格に戻ったら、僕たちの関係はどうなるのだろうか?
避けられるか、もしくはよそよそしく接するようになってしまったら、耐えられそうにない。
すると、そんな不安を吹き飛ばすように、お義兄様は明るく笑った。
「いいや。おそらくだけど、レティは別人のように見えるけど、違う人格になってしまったわけじゃないと思うんだ。吹っ切れて、新しい一歩を踏み出したんだよ。本質的には変わってないってわかるんだ」
レティシアが生まれた時から彼女を見てきたお義兄様が言うのであれば、信じられる。
最悪の事態の可能性が薄れて安堵した。
「小さい頃のレティの話が気になるだろう? 教えてあげるから、また遊びに来てくれるといい」
「ありがとうございます。ぜひとも聞かせてください」
まだまだ知らないことばかりで、もっと知り尽くしたくてならない。
それと同時に、なにがあっても守りたいと、思っている。
だからビゼー卿と会わせてもらうために、お義兄様に手紙を書いた。
レティシアの片想いの相手と知っていて、彼をレティシアに近づけたくはなかったが、守るためならやむを得ない。
この機会を逃さないように、自分の気持ちを抑えて彼を呼んだ。
「さて、それではノエルが手紙をくれた件について、話を始めるとしよう」
お義兄様が話を切り出すと、ビゼー卿は待ってましたといわんばかりに手に持っていたグラスをテーブルの上に置いた。
「そうですね。魔性の貴公子と名高いファビウス卿からのご指名を受けて馳せ参じたんですから」
そう話すビゼー卿からは好意的な雰囲気を感じ取れる。
正義感が宿る瞳を持つビゼー卿はひと目見て、国王側の人間ではないのがわかる。おまけに彼は騎士団に所属する治癒師で、顔が広く信頼も厚い。
仲間にできたら心強いだろう。
彼を通して騎士団の内情を探れるはずだ。
国王が不穏な動きをしている以上、万全の準備をして迎え撃たなければならない。
レティシアだけは、奪われたくないから。



