【電子書籍化】このたび、乙女ゲームの黒幕と婚約することになった、モブの魔法薬学教師です。

 ジスラン様のことを、いまはどう思っているのか。
 その質問はつまり、ノエルは舞踏会で聞いた私の失恋について尋ねているのよね?

「ただの幼馴染よ」
「それにしては、あなたは彼を気にし過ぎている」

 ノエルの目にはそう映っていたんだ。たしかに私は、気まずいと思うせいでジスラン様のことを目で追ってしまっていたのかもしれない。それは認めるわ。
 けれど、ジスラン様にはもう恋愛感情を抱いていないというのは本当だ。恋人や妻がいる相手を好きになるほど恋に溺れることはないもの。

 それに、私はもう恋はしないと、前世の記憶が戻った日に決めている。

「ノエルも知っての通り、失恋した相手なのよ? 顔を合わせたら思い出しちゃって、私が一人で勝手に気まずくなってしまっていただけよ」

 これでわかってくれると思っていたのに、まるで反論するかのように、ノエルの腕の力は強くなる。呼吸して胸が動いているのも、鼓動も、背中を通して伝わってくるくらいノエルとの間に隙間はなくて。

 これまでもなんどか抱きしめられたことはあったけど、こんな感覚が伝わるほどのことはなかった。
 ノエルの鼓動に合わせて、自分の心臓が脈打つのも早くなっている気がする。

「契約を破ったら許さないから」
「え?」

 急に契約書の話をするものだから、頭がついていけなかった。身をよじってノエルの顔を窺ってみると、フレデリクに負けないくらいの仏頂面になっている。

「契約書には恋人を作っていいとは書いてなかったはずだ。それを忘れないように」
「へ?」

 そもそも契約書に恋愛の項目なんてなかったはず。だから、ダメとも書いてなかったわよ、なんて言いそうになった。喉まで出かかった言葉をのみ込む。言ったら最後、浮気を疑われそうだもの。
 ノエルは黒幕(予備軍)だけど律義なところがあるから、そういう行為が許せないのかもしれない。火に油を注ぐようなことは、したくない。

「レティシアは僕の婚約者なんだから、よそ見なんてしないでくれ」
「ほ?」

 まるで私が浮気したかのような言い草で、驚きのあまり間抜けな声を出してしまう。それに、まさかノエルからそんなことを言われる日が来るなんて思いもよらなかった。

「悪いけど、僕はこの婚約を破棄するつもりがないから、ビゼー卿のことは諦めるんだ」

 うわあ、ときめきそうな台詞を言ってくれるわね。
 前世の記憶を合わせても言われたことのない言葉に驚くあまり、他人事のように聞いてしまいそうになる。

「あ、あの。ノエル、ちゃんと聞いて欲しいの」

 もしかしてノエルは、私がジスラン様のことが忘れられず、婚約を破棄するかもしれないと心配しているのかしら?
 私は彼にとって良い契約相手としてのポジションを確立しているのかな?

 そうだとすると、けっこう【なつき度】が上がっているのかもしれないと、内心ニヤリとしてしまう。

「ジスラン様がいるとね、気まずいとは思うけど、本当にそれだけなのよ。他意はないわ」
「……」

 ノエルは怒りと不安を混ぜたような顔をして私を睨んでいる。睨まれているけど、ちっとも怖いとは思えなかった。エメが拗ねているときと似ているからだ。そう思うと、急にかわいく見えてしまう。

「あなたね、なんて顔しているのよ?」
「どんな顔してるんだ?」
「かわいい顔をしているわ」
「かわいいと言われても全く喜べないね」
「でしょうね」

 不安だからふてくされるだなんて、意外にも子どもっぽい一面を知ってしまった。ノエルは契約のことを持ち出して来たけど、その表情はまるで、拗ねている子どものそれなんだもの。

 ノエルらしからぬ、気迫がない顔を見せられたものだから、思わず笑ってしまった。

「あなた、エメと全く一緒ね。まるでジスラン様に妬いているようだわ」
「それならエメとは同じじゃないでしょ?」
「同じよ。こんなにふてくされた顔をしているんですもの」

 エメにするようにノエルの頬を軽く引っ張ってみると、顔の輪郭が変わったとしてもノエルはイケメンのままだった。
 顔が綺麗でいいわねと、やさぐれてしまいそうになる。だって、ノエルったら顔が綺麗な上に肌のきめも細かくて綺麗なんだもの。私の方がノエルに嫉妬してしまうわ。

 つい頬の触り心地を堪能してしまい、気づけばノエルの顔が赤くなっていて、頬の熱が手に伝わる。
 彼の表情を見ていると、なんだかいけないことをしてしまったような気持になった。
 なによ、まるで私に襲われたかのような顔をしてくれるじゃないの。

 私までつられてふてくされそうになるのをこらえて、ノエルを抱きしめた。不機嫌なエメにはこれが一番効くのだ。大人のノエルにはどうなのかわからないけど。

 ノエルの体は一瞬だけ固まったけど、両手をゆっくりと後ろにまわして、抱きしめ返してくる。

「大丈夫、私はノエルだけのものよ」
「っレティシア」

 肩に頭を預けてくるノエルは甘えているようで、不覚にも胸の奥からきゅんと音が聞こえてきた気がした。頭を撫でて、サラサラの髪を堪能する。

「ノエルだけのお母さんだからね」
「え?」

 ノエルは頭を上げた。間近にある紫水晶のような瞳に、驚きのあまりポカンと口を開けている自分の顔が映っている。

「え?」

 いきなりの問いかけに、問いかけで答えてしまった。

「レティシア、さっきの言葉はどういうつもりで言ったんだ?」
「どうって、そのままの意味よ。私はノエルの第二の母よ。誰のものでもなくて、ノエルだけのお母さんであり続けるんだからね」

 自信満々に宣言したのに、ノエルの反応は薄い。
 ノエルは遠い目をして、どこともない一点を見つめていた。

「……それ、まだ続いているのか」

 溜息とともにそう呟くと、抱きしめたまま、しばらく離してくれなかった。
 今日のノエルは一体、どうしてしまったのやら。