ただでさえ恥ずかしくて準備室を飛び出したい気持ちでいるのに、ノエルがしつこく髪に触れて弄び始め、妖精たちに冷やかされて我慢の限界に到達しそうな時のことだった。

「レティシア! 遊びに来たわよ~って、あら、お邪魔だったかしら」

 勢いよく扉が開いて、町娘のような服装をしたウンディーネが入ってきた。
 白いシャツに合わせたチョコレート色のワンピースは綺麗なシルエットで落ちていて、深みのある赤いエプロンがよく映えている。それにゆるく編み込んだ髪には色とりどりの小花を散らしていて彼女の美貌をより引き立てていた。

 溌溂とした美女。
 大人の色気。
 出るとこ出ている抜群のスタイル。

 王都に行ったら秒でモテそうだわ。

「いいえ、待っていたわ。さ、ノエルもウンディーネをもてなす準備を手伝って!」

 これは好機とばかりにノエルから離れる。

「あらあら、月のを顎で使うのね」
「月の?」

 聞き返すと、ノエルがウンディーネの名前を呼んだ。人差し指を口元に当てて、彼女に向かってそっと微笑む。するとウンディーネは「しまった」と言わんばかりに両手で口を覆ってコクコクと頷く。
 そんな二人からは、秘密を共有した者同士の間にある独特の親密さを感じ取ってしまう。

 なにを隠しているの?

 私だけが仲間外れにされているようで、少し、いささか、ほんのちょっと、モヤモヤした気持ちになる。

「言い間違えたわ。婚約者を顎で使うなんて大したものね。ノエルが尻に敷かれる未来が見えるわ」

 ウンディーネはそう言いながら紅茶を一口飲む。
 
 ただの言い間違えのようには聞こえなかったけどな。

 ラクリマの湖でも彼女は月の力がどうのこうのと言っていたもの。それに、さっき見た夢の中に出て来たノエルも月の力のことを口にしていた。

 私、なにか見落としていることがあるんじゃないかしら?

 それらしき記憶をたどってみるけどなにもわからない。そもそも、ゲームでは月の力なんて呼ばれるものは出てこなかった。
 さらにこの世界での出来事を思い出していると、ウンディーネがガチャッと音をたててティーカップを机の上に置いたものだから、思考が中断させられる。

「それじゃあ、私の五百十三回目の失恋の話、聞いてくれる?」

 かつての恋人のことを思い出したのか、手が震えているし、笑顔なのに部屋が凍りつきそうなほどの冷気を放っている。数についてツッコむのは、怖いから止めておいた。

「初めて出会った時、彼は湖に迷い込んでしまっていたの。あんまりにも顔がよかったから道を教えてあげたら、次の日も来てくれてね、私に一目ぼれしたって言ってくれたの」

 その美貌で出てきたら確かに惚れそうだ。うんうんと相槌を打つ。

「従騎士で毎日大変なのに会いに来てくれるのが嬉しくて、ついつい、水の加護とか精霊の祝福とか与えちゃったのよね。彼ってうっかりなところがあって頼りないから、世話を焼きたくなっちゃうのよ。それに、私を頼ってくれるのが嬉しくて」

 さすがは水の精霊、尽くす内容が人間とはひと味違う。
 そして愛が重い。加護とか祝福ってそんなにも簡単にあげて良いのか疑問だわ。

「君のおかげで力を認めてもらえて昇進したって喜んでくれていたのに、ある日いきなりぱったりと来なくなっちゃって、何日も待ち続けたのよ。でもそのうち本当に寂しくなったから、私、彼が住んでいる町まで行ったの」

 なんだか雲行きが怪しくなってきたわ。ダメ男に引っ掛かった体験談とかでこの展開を聞いたことがある気がする。
 それに、こころなしかウンディーネから放たれる冷気がさらに強くなっているのよね。

 ウンディーネはバンッと拳で机を叩いた。ティーカップがガチャリと音を立てて、隠れて話を聞いていた妖精たちが悲鳴を上げる声が聞こえてくる。

「そうしたら、彼ったら若くておしとやかそ~な女とイチャコラしていたのよ! 私を見ても無視よ。その日は泣いて湖に帰ったわ。彼も罪悪感があったのか次の日に謝りに来て、私だけしかいないとか、慈悲深く美しい俺だけの精霊だって言ってくれたから許したの。あと、生活に困ってるって言っていたからさらに活躍できるように剣に魔法を付与してあげたわ。そうしたら、遠征でしばらく会えなくなるって言われて、寂しさを紛らわせるために彼の住んでいる街に行ったら、彼、遠征なんか行かずに別の女に手を出しているの!」

 予定調和の展開になにも言えない気持ちになる。
 ウンディーネが魔法を付与した話の辺りから想像はできた。

「ウンディーネ、あなたはまず異性の好みを改めた方がいい」

 ノエルはしごく真面目な顔で忠告した。
 先ほどまでの話を聞いて、彼なりにウンディーネのためを思った結論らしい。

「うるさいわね! だれを好きになろうと私の自由よ!」

 ウンディーネは舌足らずに叫んでノエルをキッと睨んだかと思うと、机に突っ伏して泣いてしまった。まるで性質の悪い酔っ払いだ。
 
 私、紅茶にリキュールでも入れてしまったのかしら?
 そっと自分のカップに鼻を近づけてみたけどアルコールの匂いはしない。

 わあわあと泣いているウンディーネを宥めていると、ジルがちょいちょいとノエルの手を叩いて話の中に入ってくる。

「ご主人様、ウンディーネは人と結ばれると精霊の力を失うのでこのままの方が良いかと」
「嫌よ! 私も先代のように恋をして愛されたいの! たとえ力を失っても消えてもいいわ! 孤独のまま長生きしたくないのよ!」

 そう言えば、ウンディーネのことをブドゥー先生に話した時も「精霊と人間との恋にはそれ相応の覚悟が必要」と言っていたわね。しかも代償が大きいのは圧倒的に精霊の方。

 力を失ったり、命を失うこともあるかもしれないのに、ウンディーネは愛し合う未来を望んで恋を続けている。何回失恋してもめげずに次を向いている。
 一度の失恋で完全に打ちのめされた私からすると、彼女は強くて逞しくて、そしてひたむきなのが羨ましい。

「それなら魔術省にいる誠実そうな文官を紹介する。きっとあなたを大切にしてくれるだろう」
「騎士がいいの! 戦地に行く夫を見送り彼の身を案じて想いを焦がす妻になりたいのよ!」

 そんな夢まで持っていたのね。
 先の先まで夢があるウンディーネ。それらが叶うことを、いまは祈るしかなさそうだ。

「応援するわ。だからいまは好きなだけ泣きなさい」
「わ~ん! レティシア大好き!」

 ウンディーネはがっちりと腕を首に巻きつけて抱きついてくる。
 学生時代、授業で精霊について学んでいた頃は、まさかこんなにも人間臭い生き物だとは思わなかった。
 
 この恋愛体質な友人が早く幸せになれますように。

 気持ちを込めてウンディーネの頭を撫でていると、パリンと音がしてテーブルクロスの上に紅茶のシミが広がる。
 視線を上げると、ノエルが手に持っているティーカップが割れていて、ノエルはというと、割れたティーカップを呆然と見つめている。珍しい表情を拝んでしまった。

「あらやだ、私に嫉妬してるの?」

 ウンディーネの涙はぴったりと止まったようで、ノエルをじいっと見つめると、こんどはニヤリと意地悪そうに笑う。この精霊は本当によく表情が変わるわね。

「レティシア、この男には注意しなさい。執着がひどくなってそのうち閉じ込められるわよ?」
「怖いこと言わないでよ。ノエルはそんなことしないわよ、ねぇ?」

 同意を求めると、破片を拾うノエルの手がピクリと動く。そのまま破片を掴んでしまったものだから、彼の手から血が滲むのが見えた。

「ああ、そう、だな」
「ちょっと! ノエルの手、怪我してるわよ?!」

 戸棚にある救急箱を取り出して手当てをしていると、ウンディーネはなにが面白いのやら、ずっと笑っている。

「そうやって甘やかしていたら独占欲が強くなるんだから気をつけなさい」
「いや、これはノエルが怪我をしたから手当てをしているだけで……」

 甘やかしているわけではない。そもそも、ノエルが甘えるところなんて想像もできないんだけど。だってこの人、黒幕(予備軍)ですぞ?

 でも、甘やかしてみたら【なつき度】くらいは上がるかもしれないわよね?

 【なつき度】が上がれば信頼度が上がるわ。そうして信頼できる婚約者としてのポジションを確立したら見張りはなくしてくれるんじゃないかしら?
 正直言って、ノエルの【なつき度】を爆上げする決定打となるような作戦がなくて焦っているところなのよね。それなのにメインキャラの見張りまで増えるものだから、どうしたものかと頭を悩ませていたのよ。試してみる価値はあるわ。

 そうと決まれば作戦開始よ。
 その名も、【サツマイモほどの甘々スイートな対応で信頼度アップさせるぞ☆作戦】!

 母のような溢れる愛で接してノエルを甘やかして信頼を勝ち取るわ!
 第二の母として、甘えたくなるようなお母さんになってみせますとも!

「本当は、もっとノエルを甘やかしたいの」
「っレティシア?!」

 ノエルの体が拳一つ分くらい跳ねた。その拍子にテーブルのティーカップはガチャガチャと音を立てる。

 失礼な。そんなに驚くことはないでしょう?
 込み上げてくる不満をグッと抑えていると、ウンディーネは口笛を吹いてニタニタと笑う。

「ノエル、だからなんでも我儘を言ってね?」

 ひとまず聖母スマイルを見せてみた。
 するとノエルが息をのむのが聞こえてくる。

「レティシア、あなたはそんな風に、考えてくれていたのか」

 ノエルはじいっと私の顔を見ながら両掌で手を包み込む。いつもより掌が熱くて、火傷してしまったんじゃないかと心配になる。いや、でも紅茶は手にかかっていなかったはず。

「当り前よ。第二の母として、あなたの幸せを一番に考えているんですからね」

 決まったわ!
 これでノエルの心を掴んだはず!

 心の中でガッツポーズをしつつノエルの顔を見ると、表情が固まっている。それに、どこか遠くを見つめるような目をしているのだ。

 まさかの無反応だ。手ごたえがなくて作戦の失敗を悟った。

「……それ、まだ続いているのか。そして僕はまだそれに振り回されているのか。進展があったと思ったのに」

 ノエルのつぶやきと溜息はウンディーネの笑い声にかき消されてしまった。

「あんたには同情するわ」

 ウンディーネはそう言って鼻歌交じりにお菓子に齧りついた。