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 夕日が地平線に沈み月が顔を出してきた頃、【私】は回廊を歩いていた。
 すると図書館のそばにある巨木の下に見知った人物を見つけ、声をかける。

「ディディエ、もう夕食の時間だよ。食堂まで一緒に行こう?」
「あ、サラ」

 ディディエは顔を上げて目元を拭う。一瞬だけ垣間見えた瞳には涙が浮かんでおり、泣いていたのは明らかだ。

 【私】はディディエに近づくけれど、彼はたじろいで距離を保つ。まるで拒絶しているようだ。【私】もそう感じたのか、歩み寄る足を止めた。

「サラも、無理して僕に話しかけなくてもいいよ」
「なに言ってるの? 友だちなんだからもっと話そう?」
「……本当にそう思ってる? いつ魔力が暴走するかもわからない、魔物みたいな僕のこと、同じ人間だとも思えないでしょ?」

 俯いて、震える声を絞り出す姿は痛々しい。固く拳を握る手は、力を入れ過ぎて皮膚の色が変わってしまっている。

 さあっと風が吹いて、空にかかる薄雲が月明かりを遮り、彼の表情を隠した。

「だれかにそう言われたの?」

 そう言って【私】が差し伸ばした手は、振り払われてしまった。

「僕に近づかないで」

 弾かれたように立ち上がって走り去るディディエを追いかけようとするも、いきなり【私】の前につむじ風が起こって阻まれた。
 咄嗟に目を閉じてしまい、風が止んで目を開けた時にはすでに、ディディエの姿はなかった。

 だれもいなくなった辺りを見回して、胸の前でぎゅっと手を握りしめる。

「嫌だよ。だってディディエ、すごく怯えてたのに、そのままになんてできないよ」

 【私】は暗闇を見つめる。

 ああ、この夢もまた、これから起こるイベントを暗示しているのかしら。

 これまでにアロイスやセザールやフレデリクたちとのイベントシーンが夢に出てくると、どう抗っても現実世界でイベントが起きてしまっている。

 ふと、【私】の視界の端に人影が映った。
 紫紺のローブを身に纏い、闇夜に溶けるようにして、こちらの様子を窺っている。

 こんなシーン、ゲームではなかった気がするけど。

 不審に思ったところで、ふと気づいた。
 【私】は誘われるように人影の方へと引き寄せられていく。私の興味の赴くままに。私が、【私《サラ》】の体を動かしている。

 これまでの夢では起こらなかったなかった展開に胸が騒めいた。
 この夢は、なにかが違う。

 恐ろしくなって足を止めると、時を同じくして風がそよぎ、月を隠していた雲を流す。
 月明かりに照らされて()の顔が鮮明に映った。

「ノ、エル……?」

 ドクン、と心臓が大きく脈を打つ。

 紫紺のローブを身に纏い、無表情を貼りつけたノエルが、じっと私を見ていた。
 ゲームではこの場面で()が映り込むことなんてなかったのにも関わらず、いま、サラの目の前にいるのだ。

 違和感がじわじわと恐怖心を煽っていく。

「あなたは、何者なんですか?」

 ()は私に向かって、確かにそう訊ねてきた。
 そうして紫水晶のような瞳に射るように見つめられると、体が動かなくなる。
 
「あなたの味方よ。あなたが幸せになれるように、あなたのこと、守るから」

 だからどうか、敵ではないとわかって欲しい。そう願いを込めているけど、口から出てくる声は頼りなく消えていく。

 ()は鼻で笑うと、顔を歪めた。美しくも気迫のある顔に、ぞくりと背筋が凍る。

「どうせあなたも耳触りのよいことを言って懐柔して、月の力を支配する魂胆でしょう? それとも、ノックス国王の差し金ですか?」
「ちがう! ちがうわ! 私はただ、みんなが笑い合える未来を迎えたいだけなの。もちろん、あなたともよ。あなただけを不幸にさせないから、信じて!」
 
 踵を返す()を引き留めようと手を伸ばす。
 そうしないと、()が、ノエルが、闇に堕ちてしまう気がしたから。

 けれども手は届かず宙を掻いた。それでも必死に伸ばしていると、掌に温かな熱が伝わる。まるで誰かが手を握ってくれているようで、不思議と心が落ち着いてきた。

――『大丈夫、僕は信じている』

 耳元にノエルの声が聞こえてくると体は温かな光に包まれて、光は辺りの景色を消してゆく。
 力強くも優しく抱きしめられているような、そんな感覚に安心して体を預けた。すると、大きな掌が頭に触れる。髪を留めていたピンを抜かれると、肩に髪が落ちる重みがした。

 いやいやいや、待て。
 夢にしては感触がリアル過ぎるわ。

 髪飾りがひとりでに落ちるわけがないし、だれかが頭に触れているはずだ。
 一体、だれが?

 次第に頭が覚醒して瞼を開けると、準備室の景色が目の中に飛び込んでくる。どうやら椅子に座ったまま寝てしまっていたらしい。
 
「起きた?」

 声がした方に首を回してみるとノエルの顔がすぐ近くにあって、夢の中でも見た紫水晶のような瞳に私の顔が映っている。

「うおっ?!」

 驚きのあまり声が漏れると、紐のようなものがベシベシと膝に当たる。視線を落せば、膝の上にジルが乗っていて、しっぽで私の膝を叩いていた。

「やい、小娘! 急に大きな声を出すな!」 
「なによう! 勝手に人を椅子代わりにしているくせに生意気ね」

 ジルと言い合っていると、ノエルが苦笑しながら私の髪を撫でる。

「レティシアが魘《うな》されていたから心配していたんだ」

 目の前のジルからはちっともそんな気持ちを感じ取れないんですけど。
 だけど膝に置いていた手を見てみれば、ノエルの手をしっかりと握りこめている。これでは怖い夢を見た子どもが大人に縋って手を握っているのと同じではないか。
 自分がこんなことをしたのが信じられなかったが、魘されていた私を二人が落ち着かせようとしてくれていたのは確かなようで。

 驚きのあまり、「うそでしょ……?」と心の中の声が口からも出てきた。

 するとクスクスと楽しそうに笑う声が降ってくる。

「おはよう、レティシア」

 視線をノエルに戻すと、見つめてくる瞳は優しくて、まるで遊び疲れたからご飯を食べながら寝てしまった小さな子どもに向けているような眼差しで。

 居眠りをして寝顔を晒した挙句にノエルに縋っていた状況を想像して、恥ずかしくなった。
 バツが悪くて顔が赤くなっていると、追い打ちをかけるように妖精たちの笑い声が聞こえてくる。

 くそう、みんなして笑いやがって。
 恥ずかしさと悔しさでいたたまれない。

 二度と準備室では寝るものかと、心の中で誓いを立てた。