まったく、もう……。
 ぐちゃぐちゃになった髪を手櫛で直していると、そろそろとシュナがやってきた。
『ねぇ火花。少し、グラアナと話してもいいかしら』
「あ、うん。もちろん」
 どうしたんだろう。
 私はそっとふたりを見守る。
『ごめんなさい!』
 シュナはグラアナの前に立つと、ぺこっと頭を下げた。
「え、なに?」
 グラアナは困惑気味にシュナを見つめている。私も驚いた。
『私、本当のことを確かめようともしないで、あなたを怖いひとだって決めつけてた。噂なんてなんの信ぴょう性もないのに、本当にごめんなさい』
「シュナ……」
 シュナだって真実を聞いて辛いはずなのに……。
 本当に優しい子だ。
 グラアナはシュナの頭にぽんと手を置いた。シュナが顔を上げる。
「いいのよ。あなたはなにも悪くないわ」
 グラアナの言葉に、シュナはそろそろと窺うように言う。
『私、グラアナと仲良くなりたい。ダメかしら』
 それはいい!
 私は嬉しくなって、ふたりをわくわくしながら見守る。
「……あなたって、本当に素敵なプリンセスね。もちろんよ」
 グラアナは優しく微笑み、頷いた。
『ありがとう! グラアナ!』
 よかった。これで本当に一件落着だね。
 すると、微笑み合うふたりを見ていた王妃様が訊ねた。
「……ねぇ、グラアナ。失礼を承知で教えてほしいのだけど……人間になれば、シュナが声を取り戻せるというのは本当なの?」
 そうだった! シュナの声の問題がまだ残っていたんだった!
 グラアナは頷くと、棚から一冊の本を取り出した。
「この本にはそう書いてありました」
 表紙には、『海の秘宝』と書かれている。
「あっ! これよ、私が見た本!」と、それまで黙っていたダリアンが声を上げた。
「グラアナも持っていたのか……」
「私はシュナの声を調べるために、魔法で世界中からあらゆる本を集めたの。そしておそらく一番声を取り戻す可能性が高いのが、ここに書いてある『人間になる』ということだった」
「人間になれば、声を出せるの?」
「ここにはそう書いてあるわ。海の中で出す音と陸で出す音は違うから、人間の体になれば、陸用の声を手に入れることができるはず。ただ、やってみないことには分からないけれど」
『陸の世界……。ねぇ火花。陸の世界はどんな感じなの?』
「え? うーんそうだなぁ……。美味しいものがたくさんあって、怖い先生がいて……学校もあるし大人になったら働かなくちゃいけないし、海の中とは随分違うかも。陸の世界には魔女や魔法使いだけじゃなくて、魔力を持たない人間とか、ひとの言葉を話さない動物とか、いろんな生き物がいるよ。陸の世界は海の世界より窮屈で、面倒事も多いけど……でも、とっても素敵なところだよ。私は陸の世界が大好き!」
『……そっかぁ。……私、行ってみたいな、陸の世界』
「本当!? それなら私、シュナのこと全力で応援するよっ!」
「でもね、シュナ。人間になるってことは、マーメイドプリンセスの地位を捨てるってことよ。陸の世界にはいろんなひとがいる。こころない言葉を言う人もいるわ。それでも生きていける?」と、グラアナが言う。
『そっか……』
「ちゃんと考えなさい」
 残念だけど、それはその通りだ。ちゃんと考えて答えを出さないと、あとで後悔しても遅いもんね。
『…………』
 俯いたシュナを見て、王妃様は苦い顔をした。
「……私たちには、この海を守るという義務がある。この子をひとり陸の世界に行かせるなんて、そんな危険なこと……」
「大丈夫! シュナはひとりじゃないよ! 私がいるし、ノアくんやドロシーやダリアンだっている! それにね! シュナってとっても歌が上手いんだよ! シュナの歌声が誰にも知られないままなのは悲しいよ!」
 国王様は私を見て、ふっと柔らかく笑った。
「……シュナと離ればなれになるのは寂しいけど、シュナが決めたことなら、僕は応援するよ。いつか、シュナの歌声を僕たちも聴きたいな」
『お父様……』
 シュナの瞳がきゅるりと潤む。
「……シュナはどうしたい?」
『私……人間になりたい……。たしかに新しい世界は怖い。でも、火花やドロシーたちと出会って、初めて会話することの楽しさを知ったの。陸の世界に行けば、火花たちと一緒に歩くことができるし、知らないものを見ることができる。私、見てみたい。知りたいの。陸の世界のこと』
 シュナの思いを代弁してみせると、王妃様と国王様は顔を見合わせて、ふわりと笑い合った。
「……そっか。そうだったのか」
「シュナのそういう好奇心旺盛なところ、昔から全然変わらないのね」
 王妃様がくすっと笑う。穏やかな顔をしている。
「そうだな。沈没船なんて危ないところに秘密基地を作ったり、陸を覗きに行ったり。シュナが声を出せていたら、きっと騒がしいんだろうなっていつも思ってたんだ」
『お父様、お母様……』
「あの、いいかしら」
 グラアナが口を挟んだ。
「シュナが人間になることを望むなら、私が責任をもって彼女の親代わりになる。必ずシュナを守ると誓うわ」
 グラアナが言う。
「ありがとう。グラアナには、どうお礼を言ったらいいか……」
「プリンセスを守るのは海に生きる者の最低限の勤めでしょ。私も長い間深海で暮らしてたわけだし、当然よ」
 王妃様と国王様は、顔を見合わせて苦笑した。
「ありがとう。それなら、お願いするわ」
「娘をよろしく頼むよ、グラアナ」
「……とはいえ、シュナと離れるのは寂しいわね……」
「コルダ。巣立つっていうのは、そういうことだよ。親なら誰でもいつかは通る道だ」
「分かってるわ。でも、それでも寂しいのよ」
 すると、それまで黙っていたシュナが王妃様にぎゅっと抱きついた。
『お母様、いつも見守ってくれてありがとう。私、ふたりのことが大好きよ。ふたりの娘に生まれてくることができて、本当に良かった』
 シュナの言葉を代弁すると、王妃様はシュナを強く抱き締め、泣き出してしまった。
「シュナは私のなにより大切な子よ。なにかあったら、すぐに戻ってきていいんだからね」
『もう、泣かないでお母様。私、旅立ちに行くのよ。悲しい別れじゃないわ』
 そう言いながらも、シュナも泣いちゃってる。
「……シュナ。いいかい? これだけは約束してほしいんだ。まず、無理はし過ぎないこと。辛くなったら、グラアナか周りのひとに助けを求めること。絶対にひとりで我慢しようとしちゃダメだよ」
 国王様の言葉に、シュナは素直に頷いた。
「約束するわ」
「愛してるわ、シュナ」
『私も、愛してる』
「元気でな」
 シュナはふたりと抱き合うと、晴れやかな顔をして笑った。