ゴポゴポと海面へ上がっていく泡を避けながら、私はひとり、暗い海の中を泳いでいた。
「うう~! 夜の海ってなんか寒いし怖いよ~」
 昼間と違って、ワカメは黒くてゆらゆらしてて怪しげだし、目が紫色に光る魚とかどこを見てるのか分からない目をした大きなマンボウ(たぶん目を開けたまま寝てるだけ)とかとすれ違うと、背筋がゾクゾクってする。
 しかも静かだし……。
 まるで、だれもいない世界に迷い込んじゃったみたい。
「やっぱりドロシーとくればよかったかなぁ……」
 ドロシーが恋しいよ~。
 でも、もしドロシーがここにいたら暗いし怖いしでぎゃんぎゃん叫びまくってたかも。
 騒がしいのは私にはありがたいけど、おねむの海洋生物たちにはうるさくて迷惑になっちゃうかな。
「……落ち着け。怖くない怖くない! ここはシュナのために頑張らないとだよねっ!」 
 とりあえず、シュナがいる沈没船に向かおう。
 勇気を振り絞って、暗い深海へ潜っていく。


 ***


 沈没船の中に入ると、ほとんどの魚たちは夢の中へいっていた。ぷかぷかとゆったり寝ながら泳ぐ魚たちを避けながら、私はシュナの部屋に向かった。
 コンコン、と扉の前でノックをしてから声をかけてみる。
「シュナ~! いる~? 私、火花だけど」 
 反応はない。
「あれ。いないのかな?」 
 ドアノブを引いてみると、カチャ、と音がした。
「あ、開いた」
 開いちゃった。
「お邪魔しま~す」
 そろっと中に入ってみる。
 ベッドのすぐ隣のサイドテーブルのイソギンチャクが、淡く発光しながらゆらゆらと揺れている。
「シュナ~?」
 ベッドを覗いてみるけれど、いない。
「いないのかい!」
 ガックリと肩を落としていると、
「シュナならいないよ」と、突然どこからか声が降ってきた。
「ぴぎゃっ!? えっ、だっ、だれ!?」
 ぶんぶんと顔を振り回し、声の主を探す。
 漂ってる魚たちは寝てるみたいだし……。
 え、さっきの声はだれ?
「……うそ、もしかしてホンモノのユーレイ……?」
 うそ! こわっ!!
「違うってば! 僕はユーレイなんかじゃないよ! ひどいなぁ。今日の昼間だって話しただろ~」
 声は、どうやら頭上から落ちてくる。
 ごくり、と唾を飲んで、おそるおそる顔を上げる。
 そこにいたのは――。
「……あ、なんだ。昼間のタコか」
 シャンデリアに絡みついた状態のタコがいた。昼間はたしか鏡に張り付いていた気がするが。
「なんだってなんだい! まったく、君は今何時だと思ってるの? 安眠妨害だよねぇ」
 タコは顔を真っ赤っかにして、ぷぅっと墨を吐いた。
「ごめんごめん、そんな怒らないでよ。ほら、顔が真っ赤っかだよ。落ち着いて」
「赤いのは元からだって!!」
 あ、そっか。タコだもんね。
「ねぇ、それよりシュナがどこにいるのか知ってる?」
「それよりってなんだい!」
 案外タコって怒りっぽいんだな。ダリアンみたい。
「いいから教えてよ。シュナを探してるの」
「ふん。シュナなら家に帰ってぐっすり夢の中じゃないか」
「え、家?」
「アトランティカの王宮だよ。シュナはマーメイドプリンセスなんだから、夜はこんなところに泊まったりしないよ。優しい国王と王妃がいる、安心安全な王国に帰るのさ」
「あ~そっかぁ」
 シュナにはちゃんと家族がいるんだもんね……。意思疎通ができないと言ったって、家族に愛されていることには変わりないのだ。
「……ねぇ、タコはグラアナって知ってる?」 
「あぁ、海の魔女のことかい? もちろん知ってるよ」
 タコはあくびをしながらのんびりと答えた。
「知ってるんだ!」
 ちょっと意外。
「それならグラアナのこと、私に詳しく教えてくれないかな?」
「いいよ。なにが知りたいの?」
「うーん……性格とか?」
「グラアナは怒りっぽくて荒々しいのさ」
「ふむふむ」
「ここにある沈没船も全部魔女の気まぐれで沈没したって話だし、魔女の機嫌が悪いと海が荒れたり海水が冷たくなったりして、僕ら海の仲間たちまで暮らしにくくなったりするんだ。こっちは結構迷惑してるんだよね」
「それはひどい……」
 でも、本当にそれってグラアナの仕業なのかな……? 少し話が曖昧なような。
「それに、僕たちの大切なシュナの声を奪ったなんて最低だよ。声がないせいで、これまでシュナがどんな思いをしてきたか……可哀想過ぎるよ」
 言いながら、タコは長い足で目元を覆った。
「でもさ、だれもグラアナに会ったことないんじゃないの?」
「ないね。会ったら石にされるって噂だから、会いたくもないよ」
 また噂かぁ。
 うーん、一体どれが本当なの~!?
「その噂って、だれが言い始めたの?」
 パタッとタコの動きが止まった。
「え? ……そういえば、だれが言い出したんだろう?」
 タコは頭をこてんと傾げた。
「あ、そうそう。王妃様だ」
「王妃様?」
「コルダ王妃。シュナのお母様だよ」
「そうなんだ!」
 シュナのお母さんの話なら、嘘じゃないのかな……?
「あ、それからマーメイドが歌を歌うとやってくるっていうのは本当?」
「あぁ、それは本当だよ。僕、グラアナは見たことないけど、グラアナの魔法の黒い海流なら見たことあるから」
「黒い海流?」
 タコは神妙な面持ちで、私にそっとまんまるの顔を寄せた。
「マーメイドの女の子たちが楽しそうに歌を歌いながら泳いでいたとき、それは現れたんだ。黒い海流がどこからともなくもくもくとやってきて、マーメイドたちを包み込んだ。あのときの彼女たちは運良く声を奪われなかったみたいだけど、黒い海流から開放された途端、真っ青な顔をしてアトランティカへ逃げ帰っていたよ。きっと恐ろしいことを言われたんだろうね。可哀想に」
 となるとグラアナは、声を奪うマーメイドを選んでるってこと?
 それに、そのマーメイドたちはなにを言われたんだろう。
「ねぇ、その海流を見たのはどのへん?」
「この沈没船のすぐ近くだよ」
 それなら、ここで歌を歌えばグラアナは現れるかもしれない。
「ありがとう! 助かったよ!」
 私はタコにお礼を言って、シュナの部屋を出た。