(……うわぁ……いやぁ……)


指定されたビルの前、想像を遥かに上回る建物を見上げて白目を剥いた。
これから起こることを想像して、気が遠くなりそう。
私が言い出したんだけども。


(「妻ですけど、夫が忘れ物をして」って言うの? いや、それしかないけど。……お兄ちゃんの名前出した途端、取り押さえられたりしないかな)


所属どころか、御曹司だもんね。
そういえば、役職とか部署とか何も聞いてないけど、それで分かるということだろう。

武者震い半端ない。
でも、ここまで来て帰るわけにいかないし。
何より、これを渡さないとお兄ちゃんが困るんだから。


(……よ、よし。いざ……!! )


「……だろ、ムカつくよなー」


エントランスに向かおうとしたところで、ちょうど誰かが出て来て咄嗟に物陰に隠れた。


(……何やってるんたろう……)


これじゃ、本当に不審者だ。
でも、この声、どこかで聞いたことあるような――……。


「でもさ、ムカついても仕方ないだろ。トップもトップのボンボンなんだから。適当に愛想よくしとけよ」

「顔面偏差値フル活用した笑顔で来るから、うんざりなんだよ」

「お前に色目使ってるわけじゃないって」

「んなの、分かってるよ。そうじゃなくてさ―」


こそっと顔を出して、その二人組を見ると。


(あの人、この前の……)


この前会った、お兄ちゃんにやたら噛みついてくるっていう人。


(じゃあ、今話題になってるのは……)


「何もかも超越してるから、俺なんかに腹も立たないって感じで。優しく諭してくるから、ムカつくんだよ。施しでもしてるつもりみたいで」

「考えすぎだろ。本人、何も考えてないに一票」

「それはそれでムカつく」


(……どうしたいのよ)


聞いてるだけで、こっちがムカムカしてきた。
注意されるのは嫌だし、優しくされるのもムカつくって。
気持ちは分からないでもないけど、顔面偏差値高いのはお兄ちゃんのせいじゃない。
もちろん恩恵もあっただろうけど、お兄ちゃんしか経験できない辛いこともたくさんあったと思う。
だって、あの時。


『家が儲かってて、それなりの顔面で生まれてきただけ』

『卑屈なくらい、謙遜してるよ』


(……初めて、自信なさそうに見えた。まるで、自分が好きじゃないって言ってるみたいだった)


人の弱いところは、他人にはなかなか見えない。
だからこそ、その欠片を見つけてしまった時に、果たして自分が触れてしまっていいのか悩んでしまう。


「だからさー、ちょっとゲーム用意しちゃった」


手を伸ばして、余計に傷つけてしまわないか。
触れてもみなかったことで、消えてしまわないか。
きっと、誰だってそういうものを抱えていて、お兄ちゃんみたいな成功者に見える人だって同じなんだ。
ただですら完璧に見えるのに隠すのも上手すぎて、いっぱいいっぱいの状態だと更に見えにくいだけ。


「もうすぐ始まる会議の資料、間違った数字で事務の人に伝えてるから……さあ、どうかるかな。ま、あの人なら気づいてその場で修正してくれるだろ」


なのに、無理やり痛いところを作って、突き刺そうだなんて。


「悪い奴。俺は何も聞いてないからな」


(……そんなこと、絶対させない)


二人が見えなくなるのを待って、さっきの弱腰を引っ叩くようにエントランスへと向かう。

だって私は、哉人さんの――……。


「……の、妻です」