「旦那様なら宣言通りすぐに帰ってくるさ。もう帰路についているんじゃないかい?」
「そう、かもしれませんね」
「ああ、きっと今頃馬車の中で欠伸でもしているだろうよ」

 ドリスさんはわたしを励ますために折を見て部屋に来ては話しかけてくれる。

 明るい声と心に寄り添ってかけてくれる温かい言葉に励ましてもらったおかげで、エドが旅立ってから布団の中に籠ってばかりだったわたしは食事を摂れるようになるまで回復した。

 今ではまた、ダレンが編み出した契約魔法の解読に勤しんでいる。

「そろそろ商人が来る時間だから行ってくるね。夕食は何が食べたいかい?」
「えっと……、以前作ってくださったお肉と林檎のクリーム煮が食べたいです」

 初めてこの家に来た夜に食べた温かいクリーム煮の味を思い出す。
 口の中に入れるとほろりと崩れるお肉には仄かに林檎の甘みが感じられて、体に染み渡る美味しさが、なぜだかとてつも懐かしくて好きだった。口に入れた途端、胸の中に温かいものが宿るのだ。

「おやおや、旦那様と同じ料理が好きなんだねぇ。わかったよ、料理人《シェフ》に頼んでおくから楽しみにしておくれ」

 さてさて、と呟き腕まくりをするドリスさん。
 これから始まる商談に張り切っているのが伝わり、頼もしく思う。

 部屋を出て行くドリスさんを見送り、わたしはまた解読作業に取り掛かった。
 文字を睨み意味を追っているうちに、視界がぼんやりと霞がかる。おまけに頭がふわふわとしており、思考を奪っていく。

「……ふわぁ。昨夜の寝不足が祟ったようですね」

 元気を取り戻してから張り切って解読作業をしていたため、今になって、堰き止めていた睡魔に襲われてしまう。

 抵抗も空しく意識が遠のいてしまい、うつらうつらと頭が揺れるのを感じながら、夢の世界に引きずり込まれていった。

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 はたと気付けば、わたしは誰かの部屋の中に居る。
 そこは、今のわたしが閉じ込められている部屋と雰囲気が似ている。
 素朴だが趣のよい家具が揃えられており、本が沢山並んでいる部屋。

 それらを背景にして、目の前では美しい青年がわたしに跪いている。

 彼は言った。
 
『お師匠様、私が編み出した魔法を私にかけてください』

 切実な声と眼差しで《おししょうさま》に訴えかけているのは、すっかり大人になった弟子のダレン・ウェインライト。

 王国魔導士団の紋章が刺繍されている漆黒のローブに包まれた体つきはしっかりしており、《おししょうさま》の背をはるかに超えてしまっていることだろう。
 艶やかな黒髪は綺麗に束ねて肩に流しており、絵に描かれた人物のように現実味の無い美しさを湛えている。

 きっと天使が彼を見れば飛ぶのを忘れて空から落ちてきてしまうだろうと思うほど、危険なまでに麗しい。

『駄目だ。なぜ騎士でも奴隷でも弟子でもないお前に契約魔法をかける必要がある?』

 その願いを、《おししょうさま》は震える声で拒んだ。
 なぜだか彼女のその声を聞いていると、胸がツキンと痛んで泣きたくなる。

『お願いです。どうか、戦地に赴く私の、最後の願いを聞いてください』

 ダレンはうやうやしく《おししょうさま》の手を取り、あかぎれや傷だらけの手に頬を寄せる。
 指の付け根に口付けをして、誓いを立てた。

『わたくしダレン・ウェインライトは、この身と心と命を、大魔導士シンシア・ガーディナーに捧げます』

 そして、懇願する眼差しを向ける。

『さあ、心の中で呪文を唱えて――私の心と魂を奪ってください』

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