婚約者になったとはいえ、わたしはまだ部屋の中から出るのを許可されていない。

 契約魔法の定着が確認されるまでの間は何が起こるかわからないから、エドがいない限りどこにも行けないらしい。

 そう伝えられてもさして不自由さを感じることはなかった。
 わたしはエドの側に居られるなら、エドが帰ってくる場所に居るのなら、それで十分だから。

「ふぅ。ようやく一枚目の解読が終わりましたね」

 午前中からずっと、例のダレンの手紙を解読していた。
 一見しただけではただの記号の羅列に見えていたものだが、翻訳して意味を知っていくと親しみを感じるようになる。

「――『契約魔法で一番重要なのは、相手の意識に入り込むこと。相手に己の事を考えさせ、意識の隙間に入り込む』」

 相手の心に、内なる世界に触れて、そして魂に深く干渉する。
 魔法で理を曲げ、そこに新しい運命を刻む。

 いくらエドの頼みでも、この魔法をエドにかけるつもりはない。
 物一つ満足に移動させられないわたしが魔法で人の心に触れるのは危険すぎる。

「疲れましたね。少し休憩しましょうか……」

 ドリスさんが持って来てくれた紅茶を飲み、一息つく。
 ふわりと香る花の紅茶はエドが私のために買ってくれていたらしい。
 それをドリスさんから教えてもらってからすぐにこの紅茶が好きになった。

「ふふ。早く解読できたらエドが喜んでくれるでしょうか?」

 今夜エドが王宮から帰ってきたら、何から話そうか、何を聞かせてもらおうか。
 想像するだけで幸せな気持ちでいっぱいになる。

 ――コン。

 窓に何かがぶつかった音がした。

(小鳥がぶつかったのかしら?)

 それなら早く助けねば、と窓を開けたが小鳥の姿はなかった。
 代わりに、小鳥よりはるかに大きな青年と目が合う。

 グランヴィル卿が、窓の庇に器用に足をかけて上っていたのだ。

「グランヴィル卿!」
「姫さんを見かけないから心配で来たんだよ」
「ここ、三階ですよ?!」

 一体どのようにしてここまで来たのだろうか。
 騎士で身体能力が高いとはいえ、庇を飛び越えてここまで来るなんて命知らずにもほどがある。

 このままではいつか彼が落下しそうで恐ろしく、慌てて彼を部屋の中に入れた。

「急に王宮に来なくなったから心配だったんだよ。リンドハーゲン卿に尋ねたら体調を崩していると聞いて見舞いに行きたかったんだが、リンドハーゲン卿が許してくれなくてね。それで、姫さんの魔力を辿ってここに来たんだ」
「お心遣いありがとうございます。でも、危険なのでこれからは絶対にこのような事はしないでくださいね」
「さて、どうだろう? 姫さんの身に危険が及べば何をしてでも助けに来るよ」

(この人って本当に、物語に出てくる騎士のような方ね)

 イヴェールの塔から助け出してくれたのも、後から聞いた話によると、塔に火が放たれているのにも拘わらず、敵国の姫であるわたしを助け出してくれたらしい。

(魅力的でいい人だとわかっている。だけど、わたしの心は昔も今もエドのもの……)

「グランヴィル卿がそのように言ってくださるなんて身に余る光栄です。しかしながら私は昨夜旦那様と婚約を結びました。あなたの気持ちには応えられません」
「……そうか。姫さんはそれで幸せなのかい?」

 銀色の瞳がわたしを見据える。
 真摯な眼差しに込められているのは、わたしを思いやる気持ちなのがよくわかる。

「ええ、旦那様はずっと想いを寄せていた相手なので、今は幸せで胸がいっぱいです」
「姫さんが幸せなら、攫えないな」

 グランヴィル卿はふにゃりと眉尻を下げて困ったているような笑みを浮かべると、後ろ手で頭を掻いた。
 
「フラれてしまったけど、俺が姫さんを助けたい気持ちは変わらないよ。何かあれば頼ってくれ」

 そう言って、グランヴィル卿は上着の胸ポケットから彼の瞳と同じ銀色の魔法石がついたブローチを取り出し、わたしの掌に収める。

「返却不可だ。護符だと思って持っていてくれ。助けが必要な時はこれに呼びかけてくれると俺が駆けつける」
「ありがとうございます」

 戸惑いつつ受け取ると、グランヴィル卿は「婚約おめでとう」と言い残して去って行った。

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 夜が訪れ、エドがお屋敷に帰ってきた。

「おかえりなさいませ――……エド?」

 部屋の中に入ってきたエドは黙りこくっており、静かな、そして強烈な感情が彼の瞳に宿っている。

 ぞわりと、背筋が凍った。

「……私が留守の間にグランヴィル卿をこの部屋に入れたようですね。彼の魔力が微かに残っています」
「!」

 エドはゆっくりと見渡し、机の上にあるブローチに目を留めた。

「特にあれからは強い魔力を感じますね」
「あ、あの。これは……その……」

 気迫に押され、言葉が上手く出て来ない。

 そうしている間にも、ひたりひたりとエドが近づく。
 成す術もなく、彼と壁の間に閉じ込められてしまった。

「フィー、私がどれほどあなたを想っているのか、まだわかっていないようですね」

 エドの声は悲しみで震えていた。

(怒ってくれた方がよかった)

 大切な人が泣いているのを見るのはとてもとても苦しい。
 わたしが傷つけてしまったのだから、なおのこと。

「エド――」

 噛みつくように口づけされ息も言葉も奪われたのが、唯一の救いだった。