仕事を終えてリンドハーゲン男爵邸に帰っても、エドは執務室に入って熱心に書類に目を通している。

「旦那様、お茶を淹れますね」
「――ありがとうございます」

 何を読んでいるのか気になった私は、お茶を置きつつ机の上にある書類を盗み見る。
 紙の上にはいくつもの不可解な言語が並んでおり、垣間見るだけでは到底読み解けるようなものではなかった。

「気になりますか?」

 問いかけてくる声は柔らかく、まるで幼い子どもに語りかけるように優しい。
 顔を上げた先にあるエドの瞳は相変わらず怜悧な色を纏っているけれど、昨日の王城で見た時よりもずっと親しみを感じさせる。

「ええ、これは……古語でしょうか?」
「そうです。遥か昔のエスタシオンで使われていた言葉でしたが、異国との交流や時代の変遷に伴い失われつつありました。それを後世に伝えてくれたのが、大魔導士シンシアです」
「大魔導士……シンシア……」

 かつてイヴェールにいた頃にも聞いたことがある名前。
 不老長寿の彼女はいくつもの魔法を編み出し、エスタシオンを魔法王国たらしめた人物として語り継がれている。その一方で、彼女を『厄災の魔女』だと蔑む者もいる。

 魔導士を多く有する国にとっては救世主のような彼女だが、そうではない国にとっては脅威でしかないのだ。

 イヴェールは後者であったため、身に沁みついている恐怖感が胸の奥で頭をもたげる。

 そんな微かな心の変化を、エドは敏感に感じ取ったらしい。

「大魔導士シンシアは、女神より祝福を受けて不老長寿の身を手にした尊ばれるべきお方なのです。イヴェールで伝えていたのは国民の心をあのお方に向けさせないための偽り。冒涜にも等しい行為なのです」

 静かな口調で紡がれる言葉には敬虔の念が籠っており、司祭が神を語っているよう。

(……だけど、それ以上に気になるのは……)

 いつもは冷たい印象を与えるエドの目が、恍惚とした光を宿しているように見える。
 それはまるで、想い慕う相手に向けるような、深い愛情が込められている。

(大魔導士シンシアに恋をしているように見えてしまうわ)

 もう亡くなっている人物に嫉妬をしてしまうなんて、と苦笑つつ、笑っていられない事実に直面した。

 思えばエドは私を助け出してくれたが、それは約束してくれたからだ。
 何故だかわからないがエドは約束を守って助けてくれたのであって、私を愛しているから助け出したのではない。

 ――だからいつか、エドが私ではない誰かと結ばれるのを見なければならないのだろう。

 その現実を思い知らされて、ツキンと胸が痛くなった。
 
(……このままではいけない)

 何か、この現実を忘れられるものが欲しいと思った。

「セラフィーナ、どうしたのですか?」
 
 はっとして顔を上げれば、エドと視線がかち合う。咄嗟に、と言うべきか、視線を逸らしてしまった。

「――旦那様、お休みの日は外出してもよろしいでしょうか? エスタシオンの事を学ぶために、図書館に行きたいです」
「なりません。あなたは釈放されたとはいえ自由を許されているわけではありません」

 エドの返事はごもっともで。
 条件付きで釈放された私に外出の自由なんて贅沢な話だ。

「わかりました……」

 ひとまずは仕事で気を紛らわせようとしたその時、エドが立ち上がって一冊の本を取り出す。

「ですが、あなたにはこの国の事を知ってもらわなければならないのも確かです。私が教師役になりましょう」
「旦那様が……?」

 私の問いかけに気分を害したようで、エドは顔を顰めた。

「不満ですか?」
「い、いえ! むしろ夢のようで……嬉しいです!」
「……今日はもう仕事を終えなさい」

 エドは取り出した私に本を手渡すと、また机の上にある資料に目を通し始めた。