「……もう、本当限界」

その時、消え入りそうな声でポツリと呟いた彼の微かな声が耳に届き、一体なんのことか疑問に思った私は視線を彼の方へ戻す。

「あの、佐伯君ごめん。私変なこと言……」

「大丈夫。そうじゃないから」

もしや気分を損ねてしまったのかと不安になり、一先ず謝ろうと口を開いたら、何故か被せて否定されてしまい、益々訳が分からなくなる。

「それよりもさ、俺も川村さんのこと下の名前で呼んでいい?川村さんも俺のことそう呼んでいいから」

そして、何やら無理やり話を逸らされたような気もするけど、今度は佐伯君からとんでもない提案をされ、そこで余計な考えは一気に吹っ飛んでいった。

「う、うん。……あ、でも皆の前では恥ずかしいから、ちょっと遠慮してもらいたいかも」

まさかの佐伯君から名前呼ばわりだなんて。
下手すれば小学生以降初めてと言っても過言では無い程、男子から名前で呼ばれるのが久しぶり過ぎて、恥ずかしさが一気に込み上がってくる。

しかも、私が知る限り、佐伯君が女子を名前で呼ぶところなんて一度も見たことがないため、それを周りが聞いたら一体どんな反応をされてしまうのか。

そんな臆病な気持ちに打ち勝つことが出来ず、つい後ろ向きな発言になってしまう自分に嫌気が差しながら、私は彼をおずおずと見上げた。

「分かった。なんか俺らの秘密が増えて、それはそれでいいかも」

しかし、全く気にしていないどころか、何故かとてもご満悦な表情で意味深な言葉を投げてきた佐伯君。

これも、彼の性格から来る天然発言なのか。
それにしては、私と居る時の佐伯君って今もそうだけど、やけに距離間が近い気がする。

普段の彼は割と控えめな方で、女子に対して軽い印象は全くないけど、もしかしたらそれぐらい心を許してくれている証拠なのだろうか。

お陰で変に意識しまくっている中、不意に佐伯君の長い指が伸びてきて、ピクリと小さく肩が震える。

そして、そのまま私の髪に滑り込ませ、まるで弄ぶように毛先をいじり始めてきた佐伯君の突然のスキンシップに、頭が真っ白になった。

「ねえ、心。またこうして俺に放課後の時間をくれる?もっと君が喜ぶようなものを作りたいんだ」

しかも、早々に名前を呼んできた挙句、距離感が一気に縮まったと同時に、まるで愛の言葉を囁いているような甘い声に動悸が益々激しくなる。

この連続的に与えられる刺激は一体何なのか。
何だか夢みたいな展開に、段々と現実味がなくなり、もはや思考が付いていけなくなってきている。

「うん。私も駿斗君の作ってくれるお菓子、もっと食べてみたい」

一先ず、この贅沢過ぎる彼の要求に答えようと、私は恥ずかしい気持ちを抑え、快く首を縦に振った。

「ありがとう。俺頑張るよ。あと、今日のそのクッキーは心専用だから食べたかったらまた言って」

もはや佐伯君は本気で私を殺しにかかろうとしているのだろうか。

何だかもう特別感が満載し過ぎていて、とてもじゃないけど抱えきれない。

それぐらい、佐伯君は身も心も全てが甘いお菓子で出来たような人で。

私は塩っ辛くてしょっぱいものが好きなのに、彼の糖分に随分と傾き始めているような気がする……。

そんな、何とも小っ恥ずかしいことを頭の中で連想しながらも、私は彼との特別な時間をもう少し堪能したくて。

今日はいつもより少し多めに会話を続けてみようと、密かに意気込んでみたのだった。