「──なぁ。 長期戦も覚悟してたけど、それは、ちょっとは期待してもいいってことなの」
いろんな感情を抑えるようにぽつんと落とされたその声に、私はハッと顔を覆っていた両手を外して、肩に乗っている彼の後頭部に視線を移した。
名桐くんが今、どんな表情をしているのかは分からない。でも、柔らかな髪の隙間から覗いている彼の耳が、僅かに赤く染まっているのは見えた。
昔から、常にクールな空気を纏っていて涼やかさを保っていた彼のそんな姿に、胸の奥がきゅ、と鳴った。
……私の自惚れでなければ、名桐くんは私に、好意を寄せてくれている。
彼は、最初から私を意識してくれていたと言った。
再会してからの私の、どこをそんなに気に入ってくれたのかは分からない。分からないけれど、その気持ちは素直にとても嬉しいと思う。
でも、私たちはついこの間10年ぶりの再会を果たしたばかりだし、正直なところ今はまだ、この状況に頭も心も追いついていなくて。
それに、彼とはこれからもしばらく仕事で密に関わるという事実も頭を過れば、ぐるぐると忙しなく回る思考の中から、返す言葉をうまく見つけられない。
「え、と……、」
焦りばかりが募ってなんの意味も成さない音を紡いだだけの私の肩の上で、名桐くんは、徐に遊ぶようにぐりぐりぐり、と頭を擦り付けた。
「── 遠野は、オレのこと嫌い?」
それから顔を上げた彼が、じ、とまっすぐにその双眸に再び私を閉じ込める。
〝── で、遠野は、変わったオレは嫌い?〟
それは、私の人妻疑惑が解けたあの夜に、ブランコから見上げた彼に投げかけられたのと同じような質問だった。
……あの時、私は何て答えたんだっけ……?
思考を彷徨わせ、割とすぐにその答えに辿り着いた瞬間、その聞き方が彼なりの優しさだと知る。
「き、嫌いじゃない、です!」
私の勢いの良過ぎるその答えに、彼はふ、と優しく空気を揺らして笑った。
「ん、今はそれでいい」
同時に頭にふわりと置かれた彼の手は、くしゃりと私の髪を乱してから、最後に優しく頬を辿って離れていった。
「……《《これ》》、早く届けなきゃだな。で、何個必要なの?ドーナツは」
ところが、その一拍あとにはまるで何事もなかったかのように平然とそんなことを言ってのけた彼は、手にしていたリーフレットを紙袋に戻してから颯爽と車を降り、助手席のドアをスマートに開けてくれる。
「……あ……、えっ、と、6個……?」
頭と頬に残された温もりの余韻がまだ引かぬうちのその切り替えの早さに戸惑いながらも、無意識にそう答えて降りようと足を出しかければ。
「⁉︎」
ぐん、とその動きを止められた。
「……ふ、シートベルト。外さないと、降りられない」
私を見下ろしていた眼が、優しく、でもちょっとだけ意地悪に弧を描く。
そして、く、と片方だけ持ち上げられた唇で、軽やかにその原因を指摘する。
「──今はそれでいいけど。もし次抵抗しなかったら、こんなもんじゃ済ませないから」
〝肝に銘じておいて?〟
それから長身を屈め、私の耳元で甘い吐息混じりにそう囁いた彼は、カチッ、と私のシートベルトを外して、艶やかに微笑んだ。
── そろそろ夕暮れ時の涼しさをつれてきてくれても良いはずの風は、残念ながら生温さしか孕んでいなくて。
再び熱くなった頬を覚ますのには、全然役には立ってくれなかった。



