静かに深く響く声色で私を遠野、と呼んだ名桐くんは、さっきまでゆりかごのような三日月を描いていた口元を真逆のへの字に変え、スッ、と私との距離を一歩詰めて来る。

それは、その足音すらも夜のもわんとした空気に溶けてしまうくらいのさほど大きくもない一歩だったはずなのに、なぜか後退りたくなるような迫力を帯びていて。

思わず身体を後ろに引こうとすれば、それよりも一足早く彼が(おもむろ)に伸ばしてきた手で私の大して高くもない鼻をきゅ、と摘んでくるから、そうすることは叶わなかった。


「……っ!?」


それと同時、私はまるでその鼻がスイッチであったかのようにぎゅっと目を瞑る。


「……きゅ、急になに……!?」
 

目はキツく閉じたままで、何とかそれだけ喉奥から絞り出す。

だって、やっぱり名桐くんのお顔は至近距離で拝見するのには向かないのだ。さっきのことがあるから、余計に。

だから、今は絶対に目を開けてはならない。これまで大分ダメージを受けている心臓が、今度こそ絶対に保たないから。


「……うっかりにも程がある」


ところがポツリと返ってきたそれは、私の動揺に拍車を掛けるには充分で。

つい瞼を持ち上げそうになって、慌ててそこに力を込めた。


(い、今、この現状における私のうっかりって何だろう……!?)


混乱する頭でザッと数分前まで遡って懸命に考えてみても、一向に思い当たる節はない。

何せ、さっきからほぼほぼ亮ちゃんと名桐くんの両名だけで会話が進んでいたようなものだったから、私がうっかりを発揮する場面なんてどこにも見当たらなくて。


「……ふ、眉間にシワ」


だけど、考えるのに集中してしまっていた私は多分、目を閉じたままでもよっぽど難しい顔をしていたのだろう。

名桐くんが綿毛を揺らすような軽さで笑った気配がして、それと同時に鼻が解放され、今度はツン、と眉間を(つつ)かれた。 


「……!?」


軽い衝撃のそれは、全然痛くはない。

むしろ、最初に摘まれた鼻の方が痛かった。