「千笑さんのこと、このままもう少しだけお借りしても良いでしょうか。五分で構いません」


〝遠野〟でもなく、〝有賀さん〟でもなく、〝千笑さん〟。


不意にその口から紡がれた呼び方は、ただ亮ちゃんと区別をつけるためだと頭では分かっているのに、分からず屋の心臓がどくんと大袈裟に反応して。

私をあと五分借りたいと言う名桐くんの意図の分からない申し出も相まって、収まりかけていたドキドキがまたぶり返してしまった。


「ああ、それはもう全然。……うちの義姉(あね)がうっかりしてるから、名桐さん、多分《《色々とご存知なかった》》んでしょう?」

「……はい」


でも、苦笑気味に頷いた名桐くんに、何やら訳知り顔の亮ちゃんが一瞬やれやれ、とでも言いたそうな表情を私に向けて。

合わせて名桐くんからもなぜかじとりとした視線が送られてくるから、ちょっとドキドキの種類が変わってくる。


(な……、なに……!?)


初対面のはずなのにどういう訳か二人が通じ合っていて、私一人だけがやっぱり蚊帳の外で、何だか居心地が悪い。


「では、私は一足早く愛する妻と息子の元へ帰りますので、名桐さんは五分と言わず、ごゆっくり」

「……ありがとうございます」

「……亮ちゃん、それ、言ってて恥ずかしくならないの……」


愛する妻と息子、なんて、思っていてもなかなか人前で口に出すのは憚られるものだ。

それを初対面の名桐くんの前でツルッと口に出せる亮ちゃんの愛は、なかなかに重いということを私は知っている。


「ん?全然。じゃ、千笑ちゃん。健闘を祈る」

「え、何の!?っていうかちょっと待っ……!」


それから亮ちゃんは、不穏なセリフと極上の笑みと私をその場に残して、背中越しにヒラヒラと手を振り軽やかな足取りでエントランスへ入っていく。

その背中を必死に目で追ってみたけれど、それは一度も振り返ることなく、ついにはエントランスの奥へと消えていった。


「ーーさて、遠野」

「……は、はい……」


真っ直ぐ耳に飛び込んできた、静かなのになぜか深く重く感じるその声に、私はいよいよ観念して無人になった空間から恐る恐る名桐くんに視線を移す。

……口元は微笑の形を作っているのに、目が笑っていない気がするのは気のせいだろうか……。



ーーこうして完全に退場する機会を失った私は、どうやらこのまま、問答無用で謎の五分間のアディショナルタイムに突入することになってしまったらしいーー。