侯爵令嬢のダリア・オールディスは、権力を振りかざして弱き者を踏みにじっている。

 いつからか、私はそう噂されるようになった。

(この容姿のせいかしら?)

 私のピンクブロンドの髪は波打っており、性格が悪いから髪が歪んでいるのだとたまに囁かれていた。

 おまけに、やや吊り上がりがちの目の色は金色。
 こちらは猛禽類のようで気が強そうと言われていたものだ。

 どうしたものかと頭を悩ませているうちに思いも寄らぬ事態が起きてしまった。

 この国――フェルラン王国の王太子殿下で私の婚約者のヒューバート殿下の誕生日を祝うガーデンパーティーで、わたしはなぜか騎士たちに拘束されてしまったのだ。

「ダリア・オールディス、お前がこれまでに犯してきた数々の悪行をもう見過ごせない!」

 茫然とするわたしの前に現れたヒューバート殿下が、声高に宣言する。
 
 わたしより四つ年上のヒューバート殿下は、華やかな顔の美丈夫だ。
 蜂蜜を溶かし込んだような金色の髪は陽の光を受けて輝いており、晴れ渡った空のような水色の瞳に魅せられる令嬢は数知れず。

 おまけに学問にも武芸にも秀でていて、そして優しく正義感が強いと言われている。

 誰にも本当の事を話せなかった。
 ヒューバート殿下はわたしを嫌っており、折に触れてわたしを罵っていた事を。

(わたしだって、叶う事ならヒューバート殿下ではなく、あのお方の婚約者になりたかったわ)

 今はもういない、愛おしい人の姿を思い描く。

 うんと幼い頃、ヒューバート殿下にいじめられて王宮の中で迷子になってしまった時、わたしは王宮の端にある離宮の前で、美しい人と出会った。

 その正体は、第三王子でわたしと同い年のウィリアム殿下で。
 彼は生まれつき病弱で、離宮でひっそりと生きていた方だった。

 華奢で優美な顔立ちの彼を見たわたしは、精霊と出会ったのだと勘違いしてしまった。

 ウィリアム殿下は、迷子になって泣いていた私を慰めてくれた。
 再会を約束したけれど――それは叶わなかった。

 ウィリアム殿下は神託により、フェルラン王国が信仰する花の女神への生贄として捧げられてしまい、人間界を去ったのだ。

 感傷に浸るわたしに、ヒューバート殿下は悪態をついた。
 
「己の罪を自覚していないとは嘆かわしい。お前との婚約を破棄する!」
「……はい?」

 私は七歳の頃からヒューバート殿下の婚約者となり、約十一年間ずっと妃教育を受けてきた。
 
 そしてつい先日、もう結婚式を挙げる頃合いだろうと彼らから知らされていたのだ。
 
(……あら? あのお方は……?)
 
 その時、殿下の隣に見覚えのある少女がいる事に気づいた。
 王立学園に通っていた頃の同級生だった、エノーラさんだ。

 栗色の髪をふわりとハーフアップに結わえている彼女は小柄で小動物を彷彿とさせる。

 ぱっちりと大きく丸い目は緑色で、その目にうっすらと涙の膜が張っている。

(それにしても、どうして彼女がここに……?)

 というのも、エノーラさんは平民だからこのような貴族の集まりに呼ばれる事はないはず。
 
「お前にはまず、エノーラに謝罪してもらおう」
「謝罪とは?」
「とぼけるな! エノーラに数々の嫌がらせをしてきただろう!」
「根拠のない事を……」
「証拠ならある! 被害者たちから嘆願書を受け取った!」

 ヒューバート殿下は彼の後ろに控えているご友人から紙の束を受け取ると、茫然とするわたしに投げつけてきた。

 地面に落ちた嘆願書の一枚に目を通したものの、全く身に覚えのない事が書かれている。

「その女を地下牢に連れていけ!」

 ヒューバート殿下の言葉に従い、騎士たちが私を連行しようとしたその時、庭園にある<女神の庭園>の門の方から、ゴゴゴと地響きに似た音が聞こえてくる。

 女神の庭園とは、花の女神フローラ様が所有する庭園だ。
 そこに咲く花たちは人間界に存在する瘴気から生き物たちを守ってくれると言われている。

 瘴気が溜まると魔物が生まれてしまう為、わたしたちは花の女神様を祀り、瘴気から守ってもらっているのだ。

 門は特別な魔法が付与された銀細工でできており、銀色の花や植物の装飾が施されていて美しい。

 その柵の向こう側は薔薇の花の垣根で塞がれているけれど、門が開く時にその垣根が移動する。

 どよめく招待客たちに、国王が声高に命令する。

「皆の者! 頭を下げて礼をとれ! 女神様に無礼のないように迎えよ!」

 その声に、これまで私たちの成り行きを見守っていた貴族たちがこぞって視線を門へと向けて頭を下げた。
 私も彼らに倣って頭を下げた。
 
「ウィリアム……お前……!」

 ヒューバート殿下の震える声にハッとして顔を上げると、わたしの目の前に美しい男性が立っていて驚いた。

 精巧な彫刻作品のごとく整った顔は柔らかな笑みを湛えており、宝石のように煌めく緑色の瞳には慈愛がこもっている。

 彼の膝までかかるプラチナブロンドの長い髪は癖一つなくサラサラで、彼の中性的な容姿に良く似合っている。
 白地に金色の装飾が施された、司祭たちが着るような服を着ており、その服が彼の神聖な雰囲気を引き立てている。

 男性はヒューバート殿下を一瞥した。
 
「王太子よ、口を慎め。私はもう人間の第三王子ではなく、花の女神フローラ様から認められた女神の庭園の花守だ」
 
 花守とは花の精霊の中でも精霊王に次ぐ位と聞く。
 ヒューバート殿下の顔から血の気が引いた。
 
(このお方が……ウィリアム殿下……?)

 確かに人外めいた美しさの中に、ウィリアム殿下の柔和な面影がある。

 花守は目を眇めてヒューバート殿下を見つめた。
 
「私は人間界に咲く花たちの声を聞く事ができる。花たちはダリア嬢がそのような悪行をしていないと言っているぞ」
「そ、そんな事はない! 証拠もある!」

 ヒューバート殿下が顔を真っ赤にして声を張り上げる。
 
 すると、花守が優しく私の手を取った。
 そして私の指先に形の良い唇をそっと押し当てる。

 彼の唇が触れた指先が、ほわんと温かくなった。

「あなたに祝福を授けました。これであなたは女神の庭園に入れます。あの場所は祝福がない人間が足を踏み入れると体に害が起きてしまうのです」
「……え?」
「皆があなたの居場所を奪うのであれば、私が攫って花の楽園へお連れしましょう」

 茫然としていると、ヒューバート殿下が恐ろしい形相で私たちのもとに歩み寄って来た。

「――っ、待て! ダリアは俺の手で処刑するんだ!」

 すると、国王陛下が騎士たちに命令してヒューバート殿下を取り押さえる。
 
「よせ! 王国を滅ぼす気か!」
「だ、だって……父上! 俺は王太子として――」
「黙らんか! 花守を愚弄するような事を言うと女神様の怒りを買うぞ!」

 顔を歪めてわたしを睨みつけるヒューバート殿下の気迫に気圧されそうになると、花守が目の前に立ってヒューバート殿下から見えないように遮ってくれた。
 
「それでは、彼女を私への生贄としていただきますね」

 すると、お父様が騎士たちを振り払ってわたしを抱きしめた。

「そんな……! ダリアが生贄なんてあんまりです! この子は何も悪いことをしていません! 私が証明しますから連れて行かないでください!」
「お父様、そのような顔をなさらないでくださいな」

 これ以上お父様がわたしを引き留めようとすると、国王陛下の反感を買ってオールディス侯爵家の立場が危うくなるかもしれない。

 だからわたしはお父様に別れを告げ、花守と一緒に女神の庭園の門をくぐった。
 
     ***

 ダリアは私を覚えているのだろうか。
 覚えていなくても無理もない。

 なぜなら私は、捨てられた王子だったのだから。
 
 私はもともと、フェルラン王国の第三王子、ウィリアム・フェルランとして生を受けた。
 
 生まれつき体が弱かった私に王位継承権を得る望みはなく。
 誰も私に見向きしなかった。

 王宮の端にある寂れた離宮で隠遁者のように生活していたある日、私はダリアと出会った。
 
 それは五歳くらいの頃だった。
 幼いダリアは道に迷って離宮に辿り着いたらしい。

 一人寂しく生活していた私は、突然現れた愛らしい客人の存在に興味を引かれた。

 そして、泣いていたダリアに話しかけた。

 やがてヒューバート兄さんの従者が渋い顔をしてダリアを迎えに来て、気付いた。
 ダリアがヒューバート兄さんの婚約者である事に。

(ヒューバート兄さんは何もかも持っていて羨ましいな)

 健康な体、両親の関心、そして自由に――愛らしい婚約者。

 内心肩を落としていた私に、ダリアが声をかけてくれた。
 
「またお会いできますか? わたし……あなたともっとお話したいです」

 ダリアの言葉に心が温かくなった。

 私を気にかけてくれる人が現れた事に、嬉しくて泣きそうになった。

 しかしその後、私は神託により生贄として花の女神に捧げられることになってしまった。
 
 ダリアとの再会を果たせぬまま女神の庭園に連れて行かれ――花の女神様の儀式により、精霊となった。

 幸運なことに、精霊になってからダリアとの再会を果たした。
 ダリアは私だと気づいていないが、それでもまた彼女に会えて嬉しかった。

 ――それは、私が花の精霊となって間もない頃だった。
 
 花祭りに合わせて人間界を訪れていた私は、小さな魔物から仲間の精霊たちを守っている際に深手を負ってしまった。
 
 幼い花の精霊は脆弱で、力が弱まると花の姿になってしまい、動く事もままならない。
 そのまま弱っていたところ、嵐が訪れていよいよ身の危険を感じていたその時、ダリアが私を助けてくれた。

 彼女は私の為に庭園師に小さな小屋を作らせて、雨風から守ってくれた。

「これでもう大丈夫よ。嵐がおさまったらまた来るわね」

 そう言い、彼女は跳ね返った泥で汚れたスカートを翻して雨の中駆けていく。

 ダリアの笑顔や言葉を思い出すと、体の奥底から力が溢れ出て、私は元の姿に戻れた。

 すると、どこからともなく花の女神様が現れて、私に告げた。

『花の精霊に必要なのは、命を愛おしく思う心。そなたはあの少女にその心を貰ったから力を得たのだから、彼女に感謝しなさい』
「……はい」

 どうかあの愛おしい少女が幸せになれますように。
 そう祈っていたのに――。
 
「どうしてダリアが悪女に……?」

 ダリアが成長するにつれて、ヒューバート兄さんが彼女のありもしない悪評を言いふらし始めた。

(どうにかして、ヒューバート兄さんからダリアを助け出したいのに……どうすればいいんだ……)
 
 落ち込む私に、花の女神様はとある提案をした。

「どうしてもその子を救いたいなら、ここに連れてくればよい」
 
     ***

 女神の庭園に通じる門をくぐったわたしは、目の前に広がる楽園のような世界に圧倒されて息を呑んだ。
 
 見渡す限り一面の、色彩豊かな花畑。
 
 門から続く細い畦道の先には可愛らしい外観のお屋敷が佇んでおり、その煙突からはもくもくと煙が立ち昇っている。

 花守が言うには、あのお屋敷が、今日からわたしが住む場所らしい。
 
「綺麗な場所……」

 おとぎ話に出てきそうな幻想的な光景に見惚れて言葉がなかなか出てこない。
 
「ダリア、女神の庭園へようこそ」

 そう言い、花守は恭しく礼をしてくれた。
 
「どうか私をウィルとお呼びください。あなたは私の生贄花嫁なのです。夫婦は対等であるべきですから、あなたが私を愛称で呼ぶのは不敬ではありません」

 花守の言葉に、はたと気づいた。
 彼は私に対して、ずっと敬語を使ってくれていたのだ。

「妻であるあなたを永遠に大切にすると誓います」
「――っ!」
 
 ずっと慕っていた人と再会できて、そして家族になれるなんて、わたしはなんて幸せ者なのかしら。

 こうして、女神の庭園での生活が始まった。
 
     ***

 王宮の庭園で王太子殿下の誕生日を祝うガーデンパーティーが開かれたその日、一人の尊いお方が人間界を追放された。

(私のせいで……)
 
 お父さんが病に伏せて困っている私に、王太子殿下が訪れて取引を持ち掛けてきた。

『ダリアを悪女にする手伝いをしてくれるのなら、王宮の治癒師を寄越してお前の父親の病を治してやろう』

 平民を診てくれる医者は誰もがお父さんの病を治せないと匙を投げてしまっていたその当時、私は王太子殿下の提案に揺さぶられた。
 
 そして、その提案を引き受けてしまった。
 
 私は王太子殿下の命令に従って、王都の至る場所で、ダリア様に虐められた被害者役を演じて偽りの涙を流した。

 王太子殿下や彼の取り巻き立ちの協力もあり、驚くほどあっという間にダリア様が悪女にされてしまった。

「お前の臆病そうな容姿は想像以上に役に立つな。これでダリアは着実に悪女として国民から嫌われるだろう」

 貴族たちが顔を顰めてダリア様の噂話をする度に、計画が上手くいった王太子殿下は上機嫌になった。

(このようなお方が国王になってしまったら、この国はどうなってしまうのかしら……?)

 人を陥れる国王が治めるこの国の未来を思うと恐ろしくなった。
 
 ダリア様は決して弱き者を踏みにじるようなお方ではなかった。
 むしろ学園では平民の私が貴族令嬢たちに虐められていると助けてくださったのに。

(それなのに私は……ダリア様への恩を仇で返してしまった)

 だから私が、私を許してはならない。
 この罪を一生涯背負って、償い続ける。

(そういえば、王太子殿下はもうダリア様への嫌がらせをお止めになったのかしら?)

 あの執念深いお方が簡単に引き下がるとは思えない。

 自分より地位が上がったダリア様を、また害そうとするはずだ。

「花の女神様、私に罪を償う機会を与えてください」
 
 私は目の前に聳える花の女神様の像に祈りを捧げた。
 
     ***

 驚くことに、わたしは女神の庭園での生活にすぐに慣れた。

 毎日が発見と驚きの連続で楽しいし、精霊たちとも仲良くできて寂しさを感じる暇もない。
 
 貴族としての生活をしていた頃より自分でやらなければならない事が増えたけど、少しも苦にならない。
 むしろこちらでの生活の方が私の性に合っているような気がする。

 ウィルと一緒に朝食を終えると、授業が始まる。
 先生はウィルで、花の世話や、精霊たちの世界での作法など、私が知らない事をわかりやすく教えてくれる。

 お世辞ではなく本心から、妃教育でお世話になったどの先生よりも教え方が上手だと思う。
 
 そう伝えると、ウィルは目元を柔らかく綻ばせて喜んでくれる。

 彼のその表情がとても好きだ。
 優しくて、慈愛に満ちていて、私のささくれだっていた心を癒してくれるから。

 午後になるとウィルは花の世話をしたり、庭園中を見回りして、時おり入り込んでくる魔物を駆除する。

 ウィルが戦う姿はとてもかっこいいから見惚れてしまう。

 彼は魔法で黄金の光で形作られた弓と弓矢を取り出して、一瞬で魔物を退治してしまうのだ。

「わたしもその黄金の弓を使えますか?」
「ええ、修行をするとダリアも使えるようになりますよ」

 ウィル様は早速、わたしに弓の魔法を教えてくれた。
 
「実は、この魔法は水魔法と火魔法の応用なんです。そこに特別な想いを込めると光の矢になります」
「ええっ?! 精霊しか使えない魔法ではないのですか?」
「はい。これはわたしが編み出した魔法ですから、精霊独自のものではありません」
「魔法を編み出せるなんてすごいです!」

 興奮気味でそう言うと、ウィルが照れて頬を赤く染めた。

 普段は落ち着ているウィルが子どものようにはにかむ様子が可愛らしくて、胸が甘く軋む。

「想いは魔力を作用するものです。だから何かを守りたいと強く想うと、それが魔法に作用して特別な力になるのです」
「想いを込める……ウィルはこの花畑や花の精霊たちを大切に想うから強いのですね」 
「いいえ。私はダリアを想い、弓と弓矢を形作ります」
「――っ!」

 ずっと好きだった人から告白されて、驚きのあまり心臓が早鐘を打ち始める。

「冗談ではありませんよ? 私はダリアを愛しています」

 喜びと照れくささで顔中が熱くなり、頭から湯気が出てしまいそうだ。
 
「ウィル……」
「無理に私に合わせなくていいですよ。ダリアはダリアの大切な人を想ってください」

 そう言うと、ウィルは少し寂しそうな笑みを浮かべてお屋敷の中に入ってしまった。

 ぽつんと残されたわたしは、先ほどの告白を思い出しては、頬に手を添えて熱を逃がしている。
 
「言いそびれてしまったわ……わたしもウィルが好きなのに……」
 
 その想いを改めて口にすると、不安が押し寄せてきた。
 
「わたしなんかが、ウィルに告白してもいいのかしら……?」

 花の女神様に次ぐ地位に就いた彼と比べると、至らない事ばかりだ。

「いつか自信を持って伝えられるように、わたしにできる事をしましょう」

 わたしは両手で小さく拳を作り、気合を入れた。
 
     ***

 「くそっ……! どうしてなんだ!」
 
 とうの昔に生贄としてこの世から去った弟が、よりにもよって女神に次ぐ地位を得て現れて、ダリアを庇ったのだ。

 そのせいで形勢逆転してしまった。
 今まで俺に擦り寄ってきた者たちが離れ、王としての器を疑う者が現れた。
 
 醜聞好きの貴族たちが俺の悪口を言いふらし始め、巷では第二王子のシリルに王太子の座が移るのではと噂されているらしい。
 
 地位が脅かされるのも、悪評を流されるのも、全部ダリアのせいだ。

「ダリアめ、絶対に許さない……!」
 
 俺に媚びず、いつも澄ました顔で、軽々と俺よりも多くの評価を手にするあの女が憎くて仕方がなかった。

 評価されるのは俺だけでいい。
 
 だからどうにかしてあの女の人生を滅茶苦茶にして、王太子妃から外した後惨めな生活を送っている様子を見てやりたいと思っていた。
 
「これでは俺が惨めなだけじゃないか」

 俺から全てを奪うダリアが許せない。

「……それなら、奪い返してやろう」

 以前、王宮図書館の禁書庫でお誂え向きの本を見つけた事を思い出す。

 大昔に処刑された魔法士が遺した、人体を使った魔法について書かれている本だ。

 その本に書かれているのは人体を強化して魔獣に変える魔法で、精霊にも引けをとらない力を手に入れられるという。

「退屈しのぎで持ち出した本だが、役に立ってくれそうだ」

 本に書かれている魔法を使い、ダリアに復讐しよう。

「ちょうどいい生贄がいたらいいのだが……俺が自分自身にこの魔法をかけるしかなさそうだな」

 ダリアを悪女にするときに協力してくれた者たちはみな、ダリアがウィリアムと一緒に門をくぐってから掌を返して離れてしまった。

 頼れるのは自分だけだ。

「この際、どうなったって構わない。俺はダリアが絶望した姿が見られるのであればそれでいい」

 その時、庭園の生垣の陰で息を殺して俺の様子を窺っていた人物がいた事に、この時の俺は気づいていなかった。
 
     ***

 女神の庭園での生活にすっかり慣れたわたしは、ウィルと手分けをして見回りをするようになった。
 
「あら、どうしたのかしら?」
 
 花の妖精のうちの一人がさっとどこかへ飛んで行ってしまった。

 残った花の精霊たちが、私のワンピースの袖を引っ張り、何かを訴えかけてくる。

 皆に連れられて辿り着いた先には、女性が一人、倒れていた。
 
 近づいてみて見ると、その女性の正体はエノーラさんだった。
 
「エノーラさん?! どうしてここに?!」
「ダリア様……申し訳ございません……」

 抱きかかえると、エノーラさんは呼吸を荒げながらわたしに謝る。
 
 エノーラさんの体は熱を持っており、苦痛に顔を歪めている。

「エノーラさん、門まで送るから帰ってくださいな」
「どうか私の話をお聞きください。ヒューバート殿下がダリア様を狙ってここに来ます。だから今すぐにお逃げください!」

 衝撃的な話だけど、身を犠牲にしてまでここに来たエノーラさんが嘘を言っているようには思えなかった。

(ヒューバート殿下は執念深いお方だもの。だから私が自分より地位が高くなって、怒りで我を忘れたんだわ)
 
 不思議と、彼の悪意を知ってももう辛くはなかった。
 今のわたしには、わたしを大切に想ってくれる人がいるから。

「私は逃げないわ。ここの花たちを守らなければならないもの」
 
 エノーラさんを運び、門が見えてきて安心したその時、門がゆっくりと開く光景を目の当たりにして、わたしは瞠目した。
 
 花に彩られた美しい門から、ドロドロとした黒い液体を体から滴らせた、黒くて大きな魔物が入り込んできたのだ。

 魔物の目は血のように赤く、不気味な光を宿している。

(右目に文様のようなものがあるわ)

 赤い瞳の真ん中に、不思議な文様がある。

(そう言えば、学園で呪術学の先生が文様について話していたわね。呪術の要は魔法陣で、そこに魔力をこめると呪術が成立する)

 だからあの魔法陣があの魔物の核となっている可能性がある。

「ダリア様! あの魔物は禁書の魔法で姿を変えた王太子殿下です! 王太子殿下がダリア様を襲う計画を立てているのをこの耳で聞いたから間違いありません!」
 
 エノーラさんの声を聞きつけた魔物は、彼女の姿を見ると舌打ちした。
 
『くそっ。門が開いているからまさかと思ったら、お前だったのか』
 
 魔物から発せられた声は、ヒューバート殿下のそれだった。

 ヒューバート殿下は黒い炎を口から吐いて花たちを焼き払う。

(ウィルが守り続けてきた花たちがみんな焼かれてしまう……!)
 
 わたしはエノーラさんを花の精霊たちに託し、ヒューバート殿下の前に立ちはだかる。

「お願いですから、やめてください!」

 ヒューバート殿下の紅い瞳がわたしを捉えた瞬間、わたしの目の前に仄かに光る大きな盾が現れた。

「ダリア! 間に合って良かったです」
 
 声が聞こえてきた方向を見ると、ウィルと花の精霊が慌ててこちらに駆けてくる。

「人の子が入り込んできたと報せを受けてここに来てみたら……魔物も入ってきたのですね」
「ええ。ヒューバート殿下が魔物になって襲ってきました。エノーラさんがそれをわたしに知らせるために来てくれたのです」
「魔物に? なんと愚かな事を」

 ウィルは溜息をつくと、魔法を使って花たちを炎から守る。
 
『チッ。何もできない、誰にも必要とされない、生贄の王子のくせに俺の邪魔をするな!』

 彼を傷つけるその言葉に、堰を切ったかのように怒りが込み上げてくる。

「――いいえ、私がウィルを必要としていますわ!」

 口を衝いて出た言葉に、ヒューバート殿下は赤い瞳を不気味に歪めて笑った。

『そうか。ならば真っ先にウィリアムを殺してやろう。今日はダリアから何もかも奪う為にここに来たのだからな』

 赤い瞳がウィルに狙いを定める。

 花を守るために魔法を使い、身動きがとれない状態のウィルに。

 わたしは咄嗟に魔法で光の弓と弓矢を作った。

「ヒューバート殿下、呪術を施す時は見えない所に印をつけないと、弱点を相手に突かれますよ」
『な、なんだと!』
「右目のその魔法陣が核でしょう? 生憎、わたしは学園で全教科を履修したからわかりますの。だってヒューバート殿下が、王太子妃たるもの全教科を履修するべきだと仰っていましたから、卒業後も定期的に学園に赴いて先生たちに特別授業をしていただいていましたの」
 
 放った弓矢が勢いを失わないままヒューバート殿下の右目に刺さる。

 苦しそうにのたうち回るヒューバート殿下の姿が小さくなり、次第に姿を変えて人に戻る。

 完全に人の姿に戻ったヒューバート殿下を、ウィルが魔法で拘束した。

     ***

 その後、ヒューバート殿下は王位を剥奪された後に処刑された。
 
 女神の庭園に魔物を放つことはつまり、花の女神様への冒涜。
 本来なら花の女神様の怒りを買い、国を滅ぼされてもおかしくない事をしたのだ。
 
(今回はウィルと花の精霊たちが交渉してくれたから、ヒューバート殿下の処刑を条件に許してもらえたけれど……本当に恐ろしい事をしたわね)
 
 そうして空席になった王太子の座には、第二王子のシリル殿下が就いた。

 ヒューバート殿下に利用されていたエノーラさんはご家族で国外へ移住した。
 
 新しい土地では幸せに過ごしてほしい。

 わたしはと言うと、ウィルと平穏な日常を過ごしている。

 年に一度、花祭りの日にお父様たちと会える日を楽しみにして。
 
「ウィル、わたし……あなたが生贄として選んでくださって幸せです」
「私も、ダリアと出会えて幸せですよ。ずっと昔、小さくて可愛らしいダリアが離宮に迷い込んできた事を、何度も花の女神様に感謝しました」
「あの時のわたしを覚えてくださっていたんですね」
「ええ、ダリアは私の初恋の人ですから」
「わたしも、ウィルが初恋の人です」 
 
 わたしたちは微笑み合うと、どちらからともなく抱きしめ合った。

「さあ、花たちの治療を始めましょう」

 ウィルと一緒に、ヒューバート殿下殿下が傷つけた花たちを魔法で治療する。

 花たちを癒すのは命を愛おしく想う心。
 ウィルからそう教えてもらったわたしは、彼への想いを魔力に乗せて花たちを治療する。
 
 ふわりとそよ風が吹いたその時、耳元に優しい女性の声が届いた。

『末永くお幸せに。これからも花守と私の庭園を頼みますよ』

 初めて聞く声だけど、なんとなくこの声の主は花の女神様だと思った。
 
 わたしたちが共に守る庭園は、今日も美しい花々で彩られている。