THE SUICIDE BRIDE 自殺因果の花嫁

 リサの、二十八歳の誕生日が一週間後に迫る中、僕とリサは原宿でデートの待ち合わせをした。当初の予定より集合時間はだんだんとずれ込んで、結局落ち合ったのは夕方になった。

 彼女が日頃の生活で疲れている事はわかっていたけど、ぞんざいに扱われてる気がして、良い気分はしなかった。
 

 私たちは腕を組み、渋谷の街を歩いた。リサのお気に入りのファッションセンターやブランドショップを見て回った。私にとっては馴染みのない場所ばかりで、新鮮で楽しかったが、どこか集中できてない自分を感じていた。

 街には幸せそうなカップルが溢れていた。彼らを見ていると、何故か寂しさを感じる。
 
 自分との未来を真剣に考えていないかのような彼女の態度に、自分たちの今の関係が、偽物のように感じて、居心地が悪かった。
 
 なぜ将来を誓い合えない二人が、今こうして恋愛関係にあるのか疑問だったし、不安感が押し寄せてくる。
 
 それが、リサを愛せない自分のせいでもあるし、僕を愛してくれない彼女のせいでもあって、どうしようも無い事を理解していた。
 
 だからこそ心が重くなって、ずっと淡い苦しさが続いていた。
 
 幸せそうな人々を見ると、その苦しさが胸の奥に響いてくるのを感じて、紛らわせていた痛みが、どんどん酷くなるのを感じた。





 彼女が服を選んでいる間、私の視線は白いリボンに、可愛らしいピンクの花が添えられた輝く髪留めに目が止まった。部分的にはゴールドで彩られ、ただ見ているだけでも心が明るくなるような雰囲気を放っていた。

 普段、彼女が好んで身につけてるダークなゴシックスタイルとは対照的なアイテムだったが、髪留めだけ可愛いく華やかにしても可愛らしくて良く似合うと思った。
 
 それに、豪華で清楚な雰囲気が、もしかしたら彼女を明るく前向きな気分に、してくれるかもしれないと感じた。
 
 サプライズで渡したら喜んで貰えると思い、彼女になるべく気づかれないように、そっとカウンターへ持って行き、購入した。

 
 食事の後、私たちはゆっくりと駅への帰り道を歩いた。星の代わりに夜道を照らすのは、無数の看板と店頭の照明だ。
 
 駅までもう少しという所にある、トイレと喫煙所くらいしか無い小さな公園のベンチに座り、私はリサがタバコを吸い終わるのを待っていた。
 
 タバコを終えて隣に座ったリサに、さっきの店でこっそりと手に入れたプレゼントを差し出した。
 
 彼女の目が驚きで輝き、彼女は微笑んで「ありがとう」と言った。彼女が開けて良いか尋ねて来たので、私は「いいよ」と笑顔で答えた。彼女の手がゆっくりと、可愛らしい、淡いピンク色の包み紙を開け、プレゼントを取り出した。
 
 彼女が「どこで買ったの?」と聞いて来たので、「さっき二人で行った店で買ったんだよ」と伝えると彼女の顔には明らかな不快感が浮かんでいた。

 僕は「リサにはこういう可愛らしいのも似合うと思うよ」と伝えると、彼女は明らかに苛立ち始め、全身が怒りで小刻みに震えているかのように見えた。
 
 
 僕は、また彼女の地雷を踏んでしまった事を察知して、お説教が始まるんだなと身構えた。

 リサは、カチカチと苛立ちながらタバコに火をつけて「こういうのが好きなら、こういう格好をしてる人と付き合えば?」とわなわなと怒りながら僕に怒りを押し殺しながら言った。

 怒り出した彼女に何を説明しても無駄だ。一歳聞くみみなんか持たず火に油を注ぐだけだと良く分かっていたので、僕は黙って胃の痛みに耐えていた。
 
 彼女の心の中の何処に地雷が埋めてあるのかが分からない。
 こっちが喜んで貰おうとしたことでも、地雷を踏んだら最後だ。彼女の怒りは大爆発を起こして、僕は粉々にされるまで嫌味をたんと受ける。

 彼女は怒りのままに「私はこんな格好したくないし、身につけない」と僕を叱責する。彼女の言葉を聞いてると、抑えきれず深い溜め息が出てしまう。


 リサは「こんなプレゼントは要らない、受け取りたくない」と言うので、僕も思わず声を荒げて「なら捨てて」と言う僕に、彼女は強引にプレゼントを突き返してきた。
 
 僕は心底イラついていたけど、彼女が要らないと言うなら自分で捨てるのがマナーだと思いプレゼントを引き取った。
 
 彼女が「これ、どうするつもり?」と問いかけた時、僕は怒りをぐっと抑えて、「はぁ?お前のために選んだものだから、捨てるに決まってるだろ」と答えた。
 
 声量は大きくなって、彼女にとっては怒鳴られたと感じたかもしれない。それでも僕なりに、かなり抑えたつもりだった。
 
 リサは、「大きな声を出さないで」と、僕に食ってかかって来た。
 
 そして、態度が悪いだとか、「私に不快な思いをさせたお前が悪い」と口汚く罵ってきた。
 
 正直に言って、僕は彼女と同じ空気を吸うのも嫌に感じるほど嫌悪感を感じていた。 
 
 彼女に理不尽な怒りをぶつけられるのが心底嫌だった。
 
 理解不能な彼女の感情の爆発に、僕はいつも傷つけられ吐き気を催すような不愉快な気分にされていた。
 
 なんの前触れもなく、突然の嵐のように押し寄せる彼女の怒り。


 リサはきっと子供ができたら、虐待するんだろうなと感じた。
 
 湧き上がる彼女の怒りが、なんの説明もしないまま無力な子供に向けられ、今の僕のように母親の顔色を伺いながら怯える子供を想像すると、胸が痛んだ。

 そのせいか、リサへの愛情が急速に萎えていくのを感じた。彼女と接する事が、いつの間にか疲労と失望を感じる事のほうが多くなっていた気がした。


 僕は正直に「自分の感情をコントロール出来ない人とは、もう会いたく無い」と伝えた。

 僕の父親も感情任せに怒鳴り散らす人間だった。僕はその横暴な態度にいつも恐怖を感じていた。
 
 子供のころ、僕は自分が父親のような人間にはなりたくないと誓った。怒りやすい自分と向き合い、長い時間をかけて怒りを抑える力を身につけてきた。だからこそ、そういう意識が無い人を軽蔑するし、魅力的に感じない。
 
 僕の言葉を聞いて、彼女は急にしおらしくなり、悲しげな表情を見せた。彼女のその態度は、まるで自分から離れていく僕を見て寂しくなった子供のようだった。

 それは彼女が本当に自分の行動を反省しているというよりも、ただ単に自分が孤独になることへの恐怖からくるもので、彼女自身の本質は何も変わっていないと僕は感じていた。


 それを裏付けるようにリサは、「貴方と付き合っていたのは、ただ性的な快楽を得るためだけだった」と言った。

 その言葉に、僕の胸は一瞬で虚空になった。リサとの数々の共有時間、彼女の笑顔、僕への言葉が全て、まるで幻だったかのように感じた。

 彼女の心に僕の存在が、ただの道具としてしか存在していないと知ったその瞬間、僕の心から彼女への愛情は急激に消え去った。一度は高く燃え上がった情熱は、冷酷な現実によって灰になった。





 僕は最後に「それでも選ばれて嬉しかった。ありがとう」と伝えた。例え道具としてでも、体内に入る事を許可してくれた事は嬉しいと感じたからだ。
 
 彼女と身を重ねたいと思う男なんて幾らでも居るだろう。そう思えば、なんだかんだで彼女に受け入れて貰えた事は、僕にとっては有り難い事だったと感じたからだ。
 
 
 リサは僕の感謝の言葉を聞いて「そう思うのが男の本当に気持ち悪い所ね」と吐き捨てるように言って下を向いた。
 
 彼女の精神構造は最後の最後まで、全く理解できなかった。


 僕は「サヨナラ」と最後のお別れの言葉を伝え、彼女に背を向け歩き出すと、後ろから彼女が「待って」と呼び止めた。
 
 僕は足を止めて彼女の方を振り返り「なに?」と尋ねた。

 
 リサは「最後に、海に行きたい」と、静かな声で僕に伝えた。
 
 真っ直ぐに僕を見る彼女の目は、死んだ魚の眼のように白く曇ってる気がした。彼女の涙が見えた訳では無かったけど、なぜだか泣いているような気がした。





 僕達は電車とモノレールを乗り継ぎ、海浜へと向かった。

 夜だと言うのに電車の中は混雑していて僕達の距離は自然と近くなった。 

 僕とリサの腕が触れ合い、彼女の匂いがした。





 駅に着くと海の匂いがして、これから帰るであろう子連れの家族や、仕事帰りのサラリーマン達とすれ違う。誰も此れも疲れた表情を浮かべてた。
 
 きっと同じくらい疲れた表情を浮かべながら歩いてる僕の手をリサがそっと握った。彼女に触られると心地よくて、彼女が良いなら肉体関係だけは、今後も続けて良いと思った。
 
 少しでも嫌だと感じたら、即帰ろうと決めて付き合ったけど、彼女が一言も喋らなかったからか、不快に感じる事は無かった。
 

 駅の階段を降りるとすぐに、所々街灯に照らされて浮かび上がる真っ黒な海が見えた。
 
 コンクリートで舗装された防波堤には、大学生くらいのグループや恋人などが複数に腰掛けて皆夜の海を見ては会話してた。
 
 僕達も適当に座り、リサと手を繋いで海を見てた
 
 都心に近い海だからか、夜だと言うのに絶えず汽笛や遠くを飛ぶヘリコプターや飛行機の音が波の音に混じって良く聞こえた。

 暗い海の向こう側には、至る所で赤い光が点滅して、大きな建物の姿を暗闇に象っていた。


 その光景は不気味で、世界が終わった後の地獄に感じた。
 
 なにもかもを飲み込む様な黒い海と、遠くに見える無数の赤い光が、焦土と化し焼け野が原になった街を、遠くに観てるような感覚に陥らせた。


 何となく不安にかられた僕は、少しだけリサの手を引いて身を寄せた。彼女の手は冷たくて、でも何とも言えない温かさがあった。
 
 彼女の存在をこんなに間近に感じるのは、これが最後になるかもしれないと思うと、その感触が、刃の様に僕の心を突き刺した。





 海の匂いは生き物の死骸の匂いで、人間も死ぬと海の匂いが香ると言う。

 幸せそうな恋人達が見ている生命の源である癒しの海とは違って、僕達が見てる海は、生命の墓場の様な気がした。


 彼女と座って海を見て居た。
 
 とても長い時間、死の世界を見て居た。

 気付けば人気は無く、真っ黒な海が何処までも広がって居た。


 リサはゆっくりと立ち上がり、防波堤の階段を降りた。 

 そのまま砂浜に降りてゆっくり歩き始めた。無数に散乱してる貝殻や砂が、彼女が進むたびにガシャガシャと音をたてる。
 
 僕も彼女の後を追って着いて行った。歩くたびに骨を踏み潰す様な、嫌な感覚がした。
 
 この浜辺が引き潮でたまたま現れたのか、満ち潮で範囲が狭いだけなのか分からないほど、すぐ先に波が迫ってた。
 
 湾に囲まれてるからか波はさほど大きくは無いけど、少し前に出れば、いつ靴が濡れてもおかしく無かった。 

 墨汁の様に真っ黒で、死骸の香りが漂う海に向かって、リサは立ち止まる事なく歩いて行く。



 僕は彼女を追い掛けて、波の中に足を踏み入れ、手を引いた。
 
 靴の中に一瞬で液体が入り込んできたのを感じた。
 
 彼女は僕の手を振り解き、静かに黒い海の中を進んでいった。

 彼女は、まるで黒い海に招かれてる様に、すごい速さで突き進むのに、後を追う僕を阻むかの様に、前に進めない。 
    
 
 彼女は黒い海に向かって突き進んでいく・・・。
 
 
 ついさっきまで、膝までだった黒い液体が、すぐに彼女の腰を覆い、胸まで迫っていった。
 
 これ以上進んだら死ぬかもしれないと僕は思った。

 
 僕は必死で彼女を追いかけた。
 
 僕は何度も何度も、彼女の名前を叫んだ
 
 どんなに叫んでも僕の声は彼女には届かない。
 
 僕は声を出すのをやめて、前に進む事だけを考えた。
 
 手で闇を掻き分けながら、一歩一歩、力を込めて前に踏み出した。
 
 
 ちょっとずつ、ちょっとずつ、リサの背中に追いつけて来た。
 
 どうして彼女が、こんな事をするのか分からなかった。
 
 僕の事を試してるのか、それとも本当に死のうとしてるのか。
 
 本当に命の危険を感じながら彼女を追った。
 
 それでもなぜか、一人で引き返そうとは思わなかった。 
 
 やっとの思いで、本当にやっとの思いで彼女の背中に手が届いた。
 
 そのままリサを抱きしめた。
 
 僕は息が上がっていて、もう体力が残って無かった。
 
 
 僕は彼女に戻ろうと言ったけど、彼女は何も答えてくれなかった。

 そして僕の手を引いて、真っ暗な世界に連れて行こうとした。

 少し進んだだけで、顔を飲み込む様に深淵の闇が覆い被さり、息をするのもやっとだった。


 僕はリサを抱きしめて抱え上げた。

 僕より身長が低いリサは、完全に波に飲まれて居て僕が抱え上げないと息も出来ない。

 時が止まった様に何度も何度も波が二人を飲み込んだ。

 リサは僕の事を掴んでくれなかった。
 
 僕だけがリサを掴んで居て、腕の感覚が無くなって、次第に全身の感覚が消えていって、生きてるのか死んでるのかすら分からなくなった。


 それでも僕の意思は確かに生きようとしてた。

 此処で死ぬのは絶対に嫌だと訴えてた。

 完全に海に飲み込まれてるリサを引っ張って浜辺を目指した。

 浜辺の光はずいぶん遠くに見えて、ダメかもしれないと感じた。


 それでも僕は、生きるために光を目指した。

 波がリサを死に連れて行こうと、ものすごい力で引きずり込もうとする。

 僕は絶対にはなさいと腕を絡め、服を指先で抉る様に掴んで、光を目指した。


 波の抵抗が強くて、なかなか前に進めない。

 それでも、足を踏み締め歩き続けた。
 
 進んでも、進んでも、波の高さは低くなる気配がまるで無く、どんどん闇に呑み込まれてる様な気がした。

 このままじゃ絶対死ぬと思い、後ろを振り向きリサを見ると、完全に頭まで海にのまれたリサの姿は全く見えなかった。
 

 それでも確かに腕の感触はあって、すぐ後ろに彼女がいる事は分かった。

 少しずつ少しずつ、海岸の光を目指した。

 ゆっくりと死の波が退いて行って、胸元くらいまでの高さになった。

 後ろを振り返ると、リサはぐったりしていて死人の様な顔つきをしていた。

 彼女を連れて行こうとしてる、遠い闇の向こう側では、不気味な赤い光が無数に点滅してる。
 
 
 もう少し、もう少しと光を目指した。
 
 早くリサに呼吸をさせなければと考えてた。

 もしも、気を失って居ても助けれる。きっと大丈夫だと信じて光を目指した。


 沢山の黒い手が死に連れて行こうと引っ張る中で、それらを引きちぎり、ようやく膝下まで波が退いた。

 まるで重力が軽く急に軽くなった様に、死へと引き付ける引力から解放された。


 良かった。リサが自分で歩いて生きる事を選んでくれた。

 どうにか、立ち上がってくれた彼女に、僕は「ありがとう」と後ろを向いて伝えると誰も居なかった。

 手には確かに彼女の感覚があって、今も掴んでるはずなのに、何も見えなかった。


 僕は自分の眼がおかしくなったと思い、彼女の手を引きながら浜辺に上がった。

 確かに掴んでる感覚が有るし、そこにリサが居ると分かるのに、何故だか眼にはハッキリと見えなかった。

 何だかぼやけた姿でリサが見える様な気もするし、見えてないような気もした。





 何故だか分からないけど、僕は彼女の手を離した。

 腕をだらんと下げて、彼女との繋がりを断ち切った。

 その時に、リサが真っ黒な海の中に帰って行くのを感じた。

 不思議と悲しく無かったし、彼女は喜んでる様な感じがした。

 笑顔で海に中に消えて行った気がした。


 何故か僕は目や口、全身から涙が出て止まらなかった。

 とめどなく全身から涙が溢れ出て、自分の涙で窒息しそうになった。





 それから、リサは何度か僕の元に訪れて、今でもたまに布団で一緒に寝ているし、たまに話す事もある。

 それが僕の思い込みなのか、ただの夢なのかは自分でも分からない。

 でも、確かに彼女は僕の側に居て、一緒に居る。

 落ち込んだ時や悲しくて泣いてる時に、後ろからそっと抱きしめてくれるのを感じる。