僕達はあれから沢山のデートをして笑い合った
美味しいものを食べて、気持ち良い事をして、追いかけて来る現実から逃げる様に、楽しい事を沢山した。
少しでもいっぱい笑える様に、少しでも悲しくならない様に。
こうやって、例え一瞬だったとしても沢山の楽しいを積み重ねていけば、きっと楽しい人生だったと思える様になると思った。
僕は、リサに笑って欲しかったし、辛い時が有っても、少しでも楽しい思いを彼女と一緒に感じたかった。
楽しさで、苦しかった事を上書きしていき、少しでも沢山の幸せを共有して行けたら良いなと願った。
僕は、この気持ちは間違いなく愛だと思った。
夜型の彼女には珍しく朝方にリサから突然電話が掛かってきた。
そして、彼女は静かに「母親が自殺した」と告げた。
彼女は凄く冷静で落ち着いて居て、「出来たら今日は電話沢山したい」と、お願いしてきた。
僕が日頃、電話嫌いで必要最低限の事しか話さないからだ。
僕は、「今からそっち行こうか?」と提案した。
僕は幼い頃に父親の葬式を経験して居たし、何か力になりたいと思ったからだ。
リサの両親は離婚して居たけど、父親とリサは、たまに電話して居た仲らしく、これから父親と会うらしい。
家族の事に立ち入るべきじゃ無いと感じて、何も出来ない事が、歯痒かったけど「いつでも力になるから」と伝えた。
リサは「ありがとう」とだけ言って電話を切った。
リサからは数時間おきに何度か電話があり、事細かく状況を説明してくれた。
心配してるであろう僕への配慮だと思って嬉しかった。
「いつも死にたいと言ってたから、いつかこうなる事は分かって居たし」と、気丈に振る舞って居たけど彼女の事が心配だった。
夜には、家に戻るというので、彼女と会うために僕は彼女の家へと向かった。
リサは割と元気そうで、それがかえって心配だった。
もしかしたら彼女が、辛くても、辛いと言えない状況に置かれてるんじゃ無いかと感じて、僕は少しでも気が楽になる様に、「お金の事は、心配しなくて良いよ」と伝えた。
リサは「お金は今の所、大丈夫」と言っていたけど、少しだけ笑顔が戻った気がした。
僕は絶対に見捨てるような事をせず、出来る限りの事をして、リサを幸せにしたいと思った。
僕達は何をする訳でも無く、お茶を飲んでると彼女が母親の事を語り出した。
リサの母親は暴力的な人で、子供の頃は良く殴られたらしい。
僕の場合は、どちらかと言うと父親が癇癪持ちで勉強をしないと教科書を投げ付けたりしてきた。
なんとなく覚えて居るのは、父親が僕の頭を叩いた時に母親が怒って家を出ると言ってから、手をあげる事はしなくなった。
それでも性格的には、激昂するタイプの人間で、子供が溢れて人口が多い時代に、競争社会を勝ち抜いた人間特有の結果主義思想を持ってる様な人だった。
リサに、この話をすると守ってくれる人が居ただけ羨ましいと言った。
彼女は、両親が離婚して母親と一緒に暮らしながら、暴力が当たり前の家庭で育ったらしい。
何度か、祖父母の家に避難した事も有ったそうだ。
でも彼女が思春期を迎えた頃に、祖父から性的な事をされるようになり、夜の仕事をしながら家を出て、自分で生きる様になった事を聞いた。
母親は男に振られる度に自殺未遂をして、リサは今まで何度も病院や警察に行った事もあったそうだ。
そして最近、様子が変だった母親と連絡が取れなくなり、心配したリサが今朝、母親が暮らす実家を訪れると、母親が亡くなっていたらしい。
彼女が自分の母親の亡骸を見て、どんな気持ちだったのか、脳が勝手に想像しようとして、僕は胸が痛くなって苦しかった。
リサは自分の手首の血管を見つめながら、流れてる血を酷く嫌そうに「私が生きていても暴力的な人間になって自殺するだけ」と、酷く自分を卑下した。
リサの話を聞いて、孫に性的衝動を持つ祖父が異常者なのか、僕には分からなかった。
まず高齢と言う事もあり、何らかの病気で判断力が正常じゃなかった可能性も有るし、そもそも孫に欲情する事が、生物的に異常なのか僕には判断できなかった。
この時に僕は、もしもリサと僕の子供が産まれて、その子が若い頃のリサにそっくりな娘に成長したら、自分は娘の事を性的な目で見ないものなのかな?と疑問に思った。
社会的道理や人間としての矜持として、近親相姦に退廃的価値観を植え付けられてるだけで、本能的に自分はどう感じるのだろう?と疑問に思った。
僕はリサの生い立ちを聞いて、心から彼女の事を尊敬して愛しい気持ちが溢れた。
そんな家庭環境に産まれたのに、少なくても今は清く誇らしく生きていて、僕に頼ろうとすらしない。
普通ならもっと泣き叫んで、お金から今後の生活まで、行政への手続きなど、何から何まで全てを頼って来そうなもんだし、そうなるだろうと思って準備をしてた。
実際、僕は弁護士事務所で働いてたので、そういうお客さんの手続きを代行する仕事を良くやっていた。
彼女の内面から確立してる自立心と、凛とした生き方は敬意を抱くほど逞しく感じた。だからこそ、余計に彼女が無理してるんじゃないかと心配だった。
リサは現実的に問題を解決して行く意思と力が有って、全く人に頼ろうとしない。
寂しさだったり孤独感に弱い女の部分は有るけど、それ以外の全てが強く勇ましい気がして、僕は思わず「リサは本当に凄いと思う」と言って彼女を抱きしめた。
僕の彼女を愛しく思った気持ちは身体に直流されて、すぐに繁殖準備を整えた。
彼女も、その事に気付いて居て「するの?」と、驚いた様に尋ねてきた。
僕は直ぐに全力で否定した。
確かに身体は直ぐに反応するけど、本当に僕の心には彼女に対する純粋な、愛でいっぱいだった。
でも、そんな僕の愛の気持ちに、自分自身の肉体が誤作動する事が、彼女には分からない。
ましてや、元彼が性欲が無い人だったのなら、彼女にとって僕は、とんでもない性欲の化け物みたいに感じるだろう。
僕は誤解を解きたくて謝った。
「本当にごめん、身体が勝手に反応するだけで、したい何て一切思ってないよ」
こんな時にまで、孕ませようとする自分の身体が異常なのかと一瞬感じた。
ちゃんとリサの事を見て「ただ抱きしめたかっただけ、何もしないよ」と伝えた。
彼女は僕を見つめて「しよう」と言ってきた。
僕は「違う、誤解しないで」と彼女に伝えたけど、彼女は止まる気配が無かった。
今日は絶対にするべきじゃ無いと僕は感じた。
母親が死んだ日の事は、絶対に忘れないと思ったからだ。
一生思い出す母親が死んだ命日に、僕との記憶が刻まれる事の罪深さに耐えられなかった。
だって僕はリサとは別れる事になると感じて居たからだ。
愛しい気持ちは本物だって感じて居たし、彼女の事を愛してた。
でも、それは長い人生の基準で言えば短期的な期間のみ保たれる愛情で、結婚して一生の伴侶にしたいと言うような、強い衝動を感じてなかった。
僕はリサに「今日はやめとこう」と言ったけど、彼女は、僕の服のボタンを外して、強引に服を脱がして来た。
僕の身体は、彼女を抱く準備が出来て居たけど、心の準備は全く整ってなかったから、上手くやれるはずが無いと思った。
彼女は僕の目を一切見る事なく、獲物を喰う獣のように僕を抱いた。愁帯びた僕の心は、どことなく気鬱で快楽を感じる事に拒絶感が有った。
前頭葉では何かと何かが必死に葛藤してた。
答えが出ない状況で雌雄異株のツヅラフジが、決してほどけない程に次々と絡まっていった。
鉄を舐めた時に感じる鋭い風味を、なぜ私は美味しいと感じて、肉体が欲するのかは、自分でも分からない。
僕の記憶に残ってたのは、舌に残る彼女の味だけだった。
∎
朝起きるとリサは元気良さげに、晴れ晴れとした顔をしてた。
落ち込んでる時に、彼女を元気付けれた事が嬉しかった。
自分が彼女に選ばれて、役に立てた事が心地よかった。
夕方から葬儀の事とかでバタバタするらしいので、僕は昼過ぎには帰る事にした。
葬儀のお金とか大丈夫なのか尋ねると、生前に母親がリサに預金通帳を渡して居て、その貯金で賄えると言った。
その話を聞いて、「お母さんはリサの事を愛して居たんだね」と言うと、彼女も涙ぐんでた。
僕の勝手な想像では有るけど、他の誰にも奪われない様に、リサに通帳を託してた事が、お母さんにとって彼女が一番大切だった気がしてならなかった。
実際、死後に通帳の残高を親戚一同でどう分配するかは揉め事の大きな理由の一つだからだ。
リサは悔しそうな、悲しそうにも見える顔で、「愛してたなら暴力なんか振るわないで欲しかった」と言った。
その言葉で彼女が、とても大変な思いをして生き抜いてきた事を感じた。
暴力を振るう事と、愛情の有無は関係ないと僕は考えてた。
野良猫の親子は、子供が成長すると縄張りから追い出す。
子猫がどんなに親猫に甘えても、噛み付いて自分の縄張りから締め出す。
それは縄張りの範囲内で取れる餌の量が決まって居て、僅かな餌を親子で分け合うと共倒れになるからだ。
しかし、飼い猫の様に、安定的に人間から餌を供給される環境下では、仲良く狭い範囲で一緒に暮らして行く事ができる。
人間も動物なので、貧困の家庭だと家庭内暴力が多く発生する。
色々な要因が有るだろうけど、親が子供に暴力を振るう理由の多くは貧困だと私は結論付けていた。
だから、リサのお母さんは独りで一生懸命子供を育てる中で、お金が無い状況から本能的に子供を追い出す様に暴力を振るう衝動が沸き起こる事は安易に想像出来た。
娘に手を挙げてしまう状況に置かれてた、リサのお母さんもきっと辛かったんだろう。
もしも、僕が同じ状況に置かれて、自分の子供や妻に、八つ当たりや、本能から生じる暴力的衝動を抑えて立派な父親をこなせるとは思えなかった。
もっと酷い父親になって、全てを投げ出し逃げ出すんじゃ無いかと感じた。
だから僕は、リサのお母さんを凄い人だと思ったし、それはリサを見てると伝わる、強さからも感じ取った。
だからこそ自分が家庭を持つなら、金を稼ぎ少しでも生活を安定させる事が、好きな人に出来る責任と貢献だと私は考えた。
自分では、彼女の生涯に責任を取れる自信が無かったし、覚悟もできなかった。
∎
リサは母親を亡くしてから、父親と前より仲良くなったみたいで、会うと良く父親の話をしてくれた。
リサの父親はキャバクラの店員に恋をしている様で、頻繁に通っているそうだ。
リサはそんな父親に「騙されんなよ」と忠告するも聞き入れて貰えず「男は本当に馬鹿だ」と嘆いて居た。
リサも同じ業種だし、僕自身も彼女の父親と同じような立場な気がして、反応に困った。
僕が彼女の為に出来る事は、彼女が落ち込んだり寂しい時に側で寄り添い、お金に困れば、自分の生活を脅かさない程度の些細な金銭援助くらいだった。
女を売りにしてる以上は、いつまでも続けられる様な仕事では無いだろうし、リサと僕が一緒に生きていく為には、将来的に僕がリサを養うしか無いと感じてた。
今は、彼女も働いてるし、お金に困る事は無いけど、僕の今の収入だけで彼女を養い続けるのはかなり厳しい。
ギリギリ食って行けるか行けないかの瀬戸際になる。
その日暮らしのお金しか無ければ、自己投資も出来なくなるし、リサと二人で生きていく事以外に何も出来なくなる。
もしも、そうした先の未来で捨てられたら、年老いて貧乏な自分だけが残る。
僕は、自分が本当に彼女に愛されてるのか不安になった。
恐らく僕は、残りの人生の全てを、彼女に捧げれるほど愛しては居ない。少なくても、今の僕にその覚悟は無かった。
∎
もしかしたら、僕がずっと探し求めていた鍵が、彼女の中に有るような気がしてた。
鍵を探した後、リサはいつものように窓を開けベッドの端に座って、細いタバコを口元に運んだ。
彼女は、いつも使っているガスライターで火をつけ、煙を静かに吐き出す。
タバコの匂いが部屋中に広がり、彼女の匂いを掻き消す。それはまるで、僕たちの共有した瞬間と感情を掻き消すかのように感じた。
彼女がタバコを吸うその瞬間、僕はただ静かに、彼女の隣で布団を引き寄せ、彼女の仕草を見つめていた。
タバコの箱の上には、磨き上げられた黒鏡のボディに、金色の装飾が施されたブランド品のガスライターが置かれてる。
その高級ライターを見ると、否応なく彼女が都会の夜の女だと言うことを感じさせる。
この瞬間が僕にとって一番嫌な瞬間だった。肌に触れられない寂しさと、僕が見た事がない彼女への憧れと、恐怖感。
そう言ったものを抱かせる孤独な時間だった。
タバコ自体が耐えれないほど嫌いというわけではない。それはただの物質で、燃えるときに発生する有害な煙と悪臭なだけ。
だけど、彼女がタバコを口にする瞬間、僕の心は乱れる。それは彼女が煙に包まれる様子が、彼女の住む世界と僕の世界の間に存在する壁を象徴しているからだ。その時間は彼女のもので、僕はただ見守るしかない。
彼女の唇から煙が立ち上る度、彼女と僕の間にある壁を感じて、その存在が僕を苛む。彼女が吸う一服の時間は、僕が彼女の全てをまだ理解していないことを、嫌と言うほど叩きつけ痛感させる時間だった。
僕が「体に悪いからタバコやめて長生きしてよ」と言うと、イライラした様子で「長生きなんてしたくないしタバコは絶対やめない」と言い放っては、怒りを鎮めるように、もう一本タバコに火をつけて、濃い煙を吐き出した。
彼女がタバコを吸い終わるまで、僕はずっと脳の痒みに一人で耐えてた。彼女がタバコを吸い終わり僕の隣に戻って来ても、さっきまで感じてた疎外感が残っていてた。
僕が「一緒に幸せになろうよ」と提案すると、彼女は「一緒に不幸になる人を探しているの」と拒絶した。
なぜリサは自己破滅を求めるのか、なぜ幸せよりも混乱と苦しみを選ぶのか、僕には全く理解できなかった。彼女の言葉は、終わりを告げる不吉な重い鐘の音のように僕の胸に響いた。
彼女の言葉は、死神が冷たい言葉を囁いているかのように感じた。
彼女が僕を、殺そうとしているように思えた。
彼女が何か深く暗いものに引き寄せられ、僕をその闇に引き込もうとしているかのように感じた。
∎
リサは何度も、僕を心から愛していると声に出して伝えた。
リサの言葉を信じる事が出来たなら、きっと永遠の愛を誓えたはずなのに、それができなかった。
彼女の僕に対する愛は本物なのだろうか?
何もかもが、分からなく不安になった
彼女への愛しい気持ちは、シャボン玉のように何処かに飛んで行って壊れて消えたように無くなっていた。
リサに対する愛しい気持ちが消えてしまったとき、僕の中には空虚感と混乱が広がった。それは、喪失感と悲しみ、そして混乱が交錯する感情だった。
永遠の愛を誓い合った二人が紡ぐ、永遠の先の世界への憧れが、リサへの愛の誓いを妨げた。
愛し合う二人で幸せになりたかった。
幸せを求める自分の心が、彼女と紡ぐ先の未来には、不幸しか無いと警告してた。
彼女は長い将来を共に生きる伴侶として僕の事を愛してくれてる訳ではない。一緒に不幸になり破滅に向かう付き添い人として、僕を愛しているのだと感じた。
∎
リサが僕に告げた「私も自殺すると思う」その言葉は突然で、僕には、なんでそんな事を言うのか理由が全く分からなかった。
僕たちは互いに愛し合い、幸せを共有し、前向きに生きている。なのに、なぜ彼女は死を選ぼうとするのか、僕には理解不能だった。
僕は悲しさに打ち拉がれ、苦しさが彼女への愛を再確認させた。
恐怖と嫌悪感と、愛情に欲情。
リサに対して言葉では全て言い表せない沢山の感情が同時に混在していた。
僕が彼女に「お願いだから死なないで」と懇願すると、彼女は「もう少し頑張って見る」と、少しだけ笑顔を見せた。
その笑顔が、僕を少しだけ、ほんの少しだけ安心させてくれるような気がした。
いつの間にか彼女の笑顔を見ないと、安心できなくなっていた。
美味しいものを食べて、気持ち良い事をして、追いかけて来る現実から逃げる様に、楽しい事を沢山した。
少しでもいっぱい笑える様に、少しでも悲しくならない様に。
こうやって、例え一瞬だったとしても沢山の楽しいを積み重ねていけば、きっと楽しい人生だったと思える様になると思った。
僕は、リサに笑って欲しかったし、辛い時が有っても、少しでも楽しい思いを彼女と一緒に感じたかった。
楽しさで、苦しかった事を上書きしていき、少しでも沢山の幸せを共有して行けたら良いなと願った。
僕は、この気持ちは間違いなく愛だと思った。
夜型の彼女には珍しく朝方にリサから突然電話が掛かってきた。
そして、彼女は静かに「母親が自殺した」と告げた。
彼女は凄く冷静で落ち着いて居て、「出来たら今日は電話沢山したい」と、お願いしてきた。
僕が日頃、電話嫌いで必要最低限の事しか話さないからだ。
僕は、「今からそっち行こうか?」と提案した。
僕は幼い頃に父親の葬式を経験して居たし、何か力になりたいと思ったからだ。
リサの両親は離婚して居たけど、父親とリサは、たまに電話して居た仲らしく、これから父親と会うらしい。
家族の事に立ち入るべきじゃ無いと感じて、何も出来ない事が、歯痒かったけど「いつでも力になるから」と伝えた。
リサは「ありがとう」とだけ言って電話を切った。
リサからは数時間おきに何度か電話があり、事細かく状況を説明してくれた。
心配してるであろう僕への配慮だと思って嬉しかった。
「いつも死にたいと言ってたから、いつかこうなる事は分かって居たし」と、気丈に振る舞って居たけど彼女の事が心配だった。
夜には、家に戻るというので、彼女と会うために僕は彼女の家へと向かった。
リサは割と元気そうで、それがかえって心配だった。
もしかしたら彼女が、辛くても、辛いと言えない状況に置かれてるんじゃ無いかと感じて、僕は少しでも気が楽になる様に、「お金の事は、心配しなくて良いよ」と伝えた。
リサは「お金は今の所、大丈夫」と言っていたけど、少しだけ笑顔が戻った気がした。
僕は絶対に見捨てるような事をせず、出来る限りの事をして、リサを幸せにしたいと思った。
僕達は何をする訳でも無く、お茶を飲んでると彼女が母親の事を語り出した。
リサの母親は暴力的な人で、子供の頃は良く殴られたらしい。
僕の場合は、どちらかと言うと父親が癇癪持ちで勉強をしないと教科書を投げ付けたりしてきた。
なんとなく覚えて居るのは、父親が僕の頭を叩いた時に母親が怒って家を出ると言ってから、手をあげる事はしなくなった。
それでも性格的には、激昂するタイプの人間で、子供が溢れて人口が多い時代に、競争社会を勝ち抜いた人間特有の結果主義思想を持ってる様な人だった。
リサに、この話をすると守ってくれる人が居ただけ羨ましいと言った。
彼女は、両親が離婚して母親と一緒に暮らしながら、暴力が当たり前の家庭で育ったらしい。
何度か、祖父母の家に避難した事も有ったそうだ。
でも彼女が思春期を迎えた頃に、祖父から性的な事をされるようになり、夜の仕事をしながら家を出て、自分で生きる様になった事を聞いた。
母親は男に振られる度に自殺未遂をして、リサは今まで何度も病院や警察に行った事もあったそうだ。
そして最近、様子が変だった母親と連絡が取れなくなり、心配したリサが今朝、母親が暮らす実家を訪れると、母親が亡くなっていたらしい。
彼女が自分の母親の亡骸を見て、どんな気持ちだったのか、脳が勝手に想像しようとして、僕は胸が痛くなって苦しかった。
リサは自分の手首の血管を見つめながら、流れてる血を酷く嫌そうに「私が生きていても暴力的な人間になって自殺するだけ」と、酷く自分を卑下した。
リサの話を聞いて、孫に性的衝動を持つ祖父が異常者なのか、僕には分からなかった。
まず高齢と言う事もあり、何らかの病気で判断力が正常じゃなかった可能性も有るし、そもそも孫に欲情する事が、生物的に異常なのか僕には判断できなかった。
この時に僕は、もしもリサと僕の子供が産まれて、その子が若い頃のリサにそっくりな娘に成長したら、自分は娘の事を性的な目で見ないものなのかな?と疑問に思った。
社会的道理や人間としての矜持として、近親相姦に退廃的価値観を植え付けられてるだけで、本能的に自分はどう感じるのだろう?と疑問に思った。
僕はリサの生い立ちを聞いて、心から彼女の事を尊敬して愛しい気持ちが溢れた。
そんな家庭環境に産まれたのに、少なくても今は清く誇らしく生きていて、僕に頼ろうとすらしない。
普通ならもっと泣き叫んで、お金から今後の生活まで、行政への手続きなど、何から何まで全てを頼って来そうなもんだし、そうなるだろうと思って準備をしてた。
実際、僕は弁護士事務所で働いてたので、そういうお客さんの手続きを代行する仕事を良くやっていた。
彼女の内面から確立してる自立心と、凛とした生き方は敬意を抱くほど逞しく感じた。だからこそ、余計に彼女が無理してるんじゃないかと心配だった。
リサは現実的に問題を解決して行く意思と力が有って、全く人に頼ろうとしない。
寂しさだったり孤独感に弱い女の部分は有るけど、それ以外の全てが強く勇ましい気がして、僕は思わず「リサは本当に凄いと思う」と言って彼女を抱きしめた。
僕の彼女を愛しく思った気持ちは身体に直流されて、すぐに繁殖準備を整えた。
彼女も、その事に気付いて居て「するの?」と、驚いた様に尋ねてきた。
僕は直ぐに全力で否定した。
確かに身体は直ぐに反応するけど、本当に僕の心には彼女に対する純粋な、愛でいっぱいだった。
でも、そんな僕の愛の気持ちに、自分自身の肉体が誤作動する事が、彼女には分からない。
ましてや、元彼が性欲が無い人だったのなら、彼女にとって僕は、とんでもない性欲の化け物みたいに感じるだろう。
僕は誤解を解きたくて謝った。
「本当にごめん、身体が勝手に反応するだけで、したい何て一切思ってないよ」
こんな時にまで、孕ませようとする自分の身体が異常なのかと一瞬感じた。
ちゃんとリサの事を見て「ただ抱きしめたかっただけ、何もしないよ」と伝えた。
彼女は僕を見つめて「しよう」と言ってきた。
僕は「違う、誤解しないで」と彼女に伝えたけど、彼女は止まる気配が無かった。
今日は絶対にするべきじゃ無いと僕は感じた。
母親が死んだ日の事は、絶対に忘れないと思ったからだ。
一生思い出す母親が死んだ命日に、僕との記憶が刻まれる事の罪深さに耐えられなかった。
だって僕はリサとは別れる事になると感じて居たからだ。
愛しい気持ちは本物だって感じて居たし、彼女の事を愛してた。
でも、それは長い人生の基準で言えば短期的な期間のみ保たれる愛情で、結婚して一生の伴侶にしたいと言うような、強い衝動を感じてなかった。
僕はリサに「今日はやめとこう」と言ったけど、彼女は、僕の服のボタンを外して、強引に服を脱がして来た。
僕の身体は、彼女を抱く準備が出来て居たけど、心の準備は全く整ってなかったから、上手くやれるはずが無いと思った。
彼女は僕の目を一切見る事なく、獲物を喰う獣のように僕を抱いた。愁帯びた僕の心は、どことなく気鬱で快楽を感じる事に拒絶感が有った。
前頭葉では何かと何かが必死に葛藤してた。
答えが出ない状況で雌雄異株のツヅラフジが、決してほどけない程に次々と絡まっていった。
鉄を舐めた時に感じる鋭い風味を、なぜ私は美味しいと感じて、肉体が欲するのかは、自分でも分からない。
僕の記憶に残ってたのは、舌に残る彼女の味だけだった。
∎
朝起きるとリサは元気良さげに、晴れ晴れとした顔をしてた。
落ち込んでる時に、彼女を元気付けれた事が嬉しかった。
自分が彼女に選ばれて、役に立てた事が心地よかった。
夕方から葬儀の事とかでバタバタするらしいので、僕は昼過ぎには帰る事にした。
葬儀のお金とか大丈夫なのか尋ねると、生前に母親がリサに預金通帳を渡して居て、その貯金で賄えると言った。
その話を聞いて、「お母さんはリサの事を愛して居たんだね」と言うと、彼女も涙ぐんでた。
僕の勝手な想像では有るけど、他の誰にも奪われない様に、リサに通帳を託してた事が、お母さんにとって彼女が一番大切だった気がしてならなかった。
実際、死後に通帳の残高を親戚一同でどう分配するかは揉め事の大きな理由の一つだからだ。
リサは悔しそうな、悲しそうにも見える顔で、「愛してたなら暴力なんか振るわないで欲しかった」と言った。
その言葉で彼女が、とても大変な思いをして生き抜いてきた事を感じた。
暴力を振るう事と、愛情の有無は関係ないと僕は考えてた。
野良猫の親子は、子供が成長すると縄張りから追い出す。
子猫がどんなに親猫に甘えても、噛み付いて自分の縄張りから締め出す。
それは縄張りの範囲内で取れる餌の量が決まって居て、僅かな餌を親子で分け合うと共倒れになるからだ。
しかし、飼い猫の様に、安定的に人間から餌を供給される環境下では、仲良く狭い範囲で一緒に暮らして行く事ができる。
人間も動物なので、貧困の家庭だと家庭内暴力が多く発生する。
色々な要因が有るだろうけど、親が子供に暴力を振るう理由の多くは貧困だと私は結論付けていた。
だから、リサのお母さんは独りで一生懸命子供を育てる中で、お金が無い状況から本能的に子供を追い出す様に暴力を振るう衝動が沸き起こる事は安易に想像出来た。
娘に手を挙げてしまう状況に置かれてた、リサのお母さんもきっと辛かったんだろう。
もしも、僕が同じ状況に置かれて、自分の子供や妻に、八つ当たりや、本能から生じる暴力的衝動を抑えて立派な父親をこなせるとは思えなかった。
もっと酷い父親になって、全てを投げ出し逃げ出すんじゃ無いかと感じた。
だから僕は、リサのお母さんを凄い人だと思ったし、それはリサを見てると伝わる、強さからも感じ取った。
だからこそ自分が家庭を持つなら、金を稼ぎ少しでも生活を安定させる事が、好きな人に出来る責任と貢献だと私は考えた。
自分では、彼女の生涯に責任を取れる自信が無かったし、覚悟もできなかった。
∎
リサは母親を亡くしてから、父親と前より仲良くなったみたいで、会うと良く父親の話をしてくれた。
リサの父親はキャバクラの店員に恋をしている様で、頻繁に通っているそうだ。
リサはそんな父親に「騙されんなよ」と忠告するも聞き入れて貰えず「男は本当に馬鹿だ」と嘆いて居た。
リサも同じ業種だし、僕自身も彼女の父親と同じような立場な気がして、反応に困った。
僕が彼女の為に出来る事は、彼女が落ち込んだり寂しい時に側で寄り添い、お金に困れば、自分の生活を脅かさない程度の些細な金銭援助くらいだった。
女を売りにしてる以上は、いつまでも続けられる様な仕事では無いだろうし、リサと僕が一緒に生きていく為には、将来的に僕がリサを養うしか無いと感じてた。
今は、彼女も働いてるし、お金に困る事は無いけど、僕の今の収入だけで彼女を養い続けるのはかなり厳しい。
ギリギリ食って行けるか行けないかの瀬戸際になる。
その日暮らしのお金しか無ければ、自己投資も出来なくなるし、リサと二人で生きていく事以外に何も出来なくなる。
もしも、そうした先の未来で捨てられたら、年老いて貧乏な自分だけが残る。
僕は、自分が本当に彼女に愛されてるのか不安になった。
恐らく僕は、残りの人生の全てを、彼女に捧げれるほど愛しては居ない。少なくても、今の僕にその覚悟は無かった。
∎
もしかしたら、僕がずっと探し求めていた鍵が、彼女の中に有るような気がしてた。
鍵を探した後、リサはいつものように窓を開けベッドの端に座って、細いタバコを口元に運んだ。
彼女は、いつも使っているガスライターで火をつけ、煙を静かに吐き出す。
タバコの匂いが部屋中に広がり、彼女の匂いを掻き消す。それはまるで、僕たちの共有した瞬間と感情を掻き消すかのように感じた。
彼女がタバコを吸うその瞬間、僕はただ静かに、彼女の隣で布団を引き寄せ、彼女の仕草を見つめていた。
タバコの箱の上には、磨き上げられた黒鏡のボディに、金色の装飾が施されたブランド品のガスライターが置かれてる。
その高級ライターを見ると、否応なく彼女が都会の夜の女だと言うことを感じさせる。
この瞬間が僕にとって一番嫌な瞬間だった。肌に触れられない寂しさと、僕が見た事がない彼女への憧れと、恐怖感。
そう言ったものを抱かせる孤独な時間だった。
タバコ自体が耐えれないほど嫌いというわけではない。それはただの物質で、燃えるときに発生する有害な煙と悪臭なだけ。
だけど、彼女がタバコを口にする瞬間、僕の心は乱れる。それは彼女が煙に包まれる様子が、彼女の住む世界と僕の世界の間に存在する壁を象徴しているからだ。その時間は彼女のもので、僕はただ見守るしかない。
彼女の唇から煙が立ち上る度、彼女と僕の間にある壁を感じて、その存在が僕を苛む。彼女が吸う一服の時間は、僕が彼女の全てをまだ理解していないことを、嫌と言うほど叩きつけ痛感させる時間だった。
僕が「体に悪いからタバコやめて長生きしてよ」と言うと、イライラした様子で「長生きなんてしたくないしタバコは絶対やめない」と言い放っては、怒りを鎮めるように、もう一本タバコに火をつけて、濃い煙を吐き出した。
彼女がタバコを吸い終わるまで、僕はずっと脳の痒みに一人で耐えてた。彼女がタバコを吸い終わり僕の隣に戻って来ても、さっきまで感じてた疎外感が残っていてた。
僕が「一緒に幸せになろうよ」と提案すると、彼女は「一緒に不幸になる人を探しているの」と拒絶した。
なぜリサは自己破滅を求めるのか、なぜ幸せよりも混乱と苦しみを選ぶのか、僕には全く理解できなかった。彼女の言葉は、終わりを告げる不吉な重い鐘の音のように僕の胸に響いた。
彼女の言葉は、死神が冷たい言葉を囁いているかのように感じた。
彼女が僕を、殺そうとしているように思えた。
彼女が何か深く暗いものに引き寄せられ、僕をその闇に引き込もうとしているかのように感じた。
∎
リサは何度も、僕を心から愛していると声に出して伝えた。
リサの言葉を信じる事が出来たなら、きっと永遠の愛を誓えたはずなのに、それができなかった。
彼女の僕に対する愛は本物なのだろうか?
何もかもが、分からなく不安になった
彼女への愛しい気持ちは、シャボン玉のように何処かに飛んで行って壊れて消えたように無くなっていた。
リサに対する愛しい気持ちが消えてしまったとき、僕の中には空虚感と混乱が広がった。それは、喪失感と悲しみ、そして混乱が交錯する感情だった。
永遠の愛を誓い合った二人が紡ぐ、永遠の先の世界への憧れが、リサへの愛の誓いを妨げた。
愛し合う二人で幸せになりたかった。
幸せを求める自分の心が、彼女と紡ぐ先の未来には、不幸しか無いと警告してた。
彼女は長い将来を共に生きる伴侶として僕の事を愛してくれてる訳ではない。一緒に不幸になり破滅に向かう付き添い人として、僕を愛しているのだと感じた。
∎
リサが僕に告げた「私も自殺すると思う」その言葉は突然で、僕には、なんでそんな事を言うのか理由が全く分からなかった。
僕たちは互いに愛し合い、幸せを共有し、前向きに生きている。なのに、なぜ彼女は死を選ぼうとするのか、僕には理解不能だった。
僕は悲しさに打ち拉がれ、苦しさが彼女への愛を再確認させた。
恐怖と嫌悪感と、愛情に欲情。
リサに対して言葉では全て言い表せない沢山の感情が同時に混在していた。
僕が彼女に「お願いだから死なないで」と懇願すると、彼女は「もう少し頑張って見る」と、少しだけ笑顔を見せた。
その笑顔が、僕を少しだけ、ほんの少しだけ安心させてくれるような気がした。
いつの間にか彼女の笑顔を見ないと、安心できなくなっていた。



