別れた妻を悪く言いたくない。
嘉一らしいやさしさに、凪紗の胸がじん
と切なさを訴える。接骨院を開業し、その
院を軌道に乗せるまで休まず働いたのだと
言っていた。きっとその道筋で、気持ちの
すれ違いや、価値観のズレが夫婦に生じた
のだろう。恋人同士のときは純粋に『恋』
を愉しむことが出来ても、共に人生を歩み
始めるとさまざまな障害が出てくる。
結婚に失望しているわけではないけれど、
離婚に至るまでひと言では語れないほどの
苦しみや葛藤があることを、凪紗は知って
いた。
「失礼いたします」
木製の引き戸を開け、作務衣に身を包ん
だ店員が個室に入ってくる。そして手際よ
く、だし巻き卵や刺身の盛り合わせ、海藻
サラダや寒ブリのカルパッチョを並べた。
「お飲み物の注文はいかがなさいますか」
空っぽになりかけた嘉一のビールグラス
を見、店員が聞いてくる。「同じものを」と
返した彼に、「わたしも」と凪紗が付け加え
ると、いそいそと戸を閉め、店員は去って
いった。
再び二人きりになった個室で、次は凪紗
の番と言いたげに嘉一が顔を覗く。
「君はどうして?」
控え目な声で訊いてきた嘉一に、やはり
凪紗も小首を傾げた。
「ひと言でいっちゃうと浮気かな。あっ、
わたしじゃなくて相手の方のなんだけどね」
慌ててそう付け加えると、嘉一は頷きな
がら唇を噛む。向けられる眼差しは同情と
いうよりも遣る瀬無さが滲んで見えて。
だから凪紗は、いままで胸に留めていた
ものをぜんぶ吐き出してしまいたくなった。
「わたしね、あの人のことが好きだから
別れたの。史也が、息子が生まれてすぐに
あの人の様子がおかしくなって。それでも、
気付かないフリをしていればこのまま幸せ
が続くと思ってた。なのに、あることをき
っかけに裏切りを知ってしまって。知って
しまったら耐えられなかったの。夫婦でい
てもこの人はわたしを好きじゃない。そう
思ったら我慢できなくて、離婚しちゃった」
話しているうちに滲んできてしまった涙
を誤魔化そうと、凪紗は笑いながら指先で
拭う。十五年以上も経つというのに、思い
出せば心はその当時の痛みを取り戻してし
まって唇が震えた。
「ごめん。訊くべきじゃなかったね」
「ううん。先に訊いたのはわたしだし、
なんだか無性に話したくなっちゃったの。
それにね、あの人と結婚したことも離婚し
たことも後悔はしてないから。結婚指輪は
家の前の畑にぽーんっと投げちゃったけど」
「ほんとに!?」
「うん。すっきりした」
「ははっ、やるなあ」
誇らしげに胸を張って笑って見せた凪紗
に、嘉一が朗笑する。そして、ひとしきり
笑うと凪紗は居住まいを正した。
嘉一らしいやさしさに、凪紗の胸がじん
と切なさを訴える。接骨院を開業し、その
院を軌道に乗せるまで休まず働いたのだと
言っていた。きっとその道筋で、気持ちの
すれ違いや、価値観のズレが夫婦に生じた
のだろう。恋人同士のときは純粋に『恋』
を愉しむことが出来ても、共に人生を歩み
始めるとさまざまな障害が出てくる。
結婚に失望しているわけではないけれど、
離婚に至るまでひと言では語れないほどの
苦しみや葛藤があることを、凪紗は知って
いた。
「失礼いたします」
木製の引き戸を開け、作務衣に身を包ん
だ店員が個室に入ってくる。そして手際よ
く、だし巻き卵や刺身の盛り合わせ、海藻
サラダや寒ブリのカルパッチョを並べた。
「お飲み物の注文はいかがなさいますか」
空っぽになりかけた嘉一のビールグラス
を見、店員が聞いてくる。「同じものを」と
返した彼に、「わたしも」と凪紗が付け加え
ると、いそいそと戸を閉め、店員は去って
いった。
再び二人きりになった個室で、次は凪紗
の番と言いたげに嘉一が顔を覗く。
「君はどうして?」
控え目な声で訊いてきた嘉一に、やはり
凪紗も小首を傾げた。
「ひと言でいっちゃうと浮気かな。あっ、
わたしじゃなくて相手の方のなんだけどね」
慌ててそう付け加えると、嘉一は頷きな
がら唇を噛む。向けられる眼差しは同情と
いうよりも遣る瀬無さが滲んで見えて。
だから凪紗は、いままで胸に留めていた
ものをぜんぶ吐き出してしまいたくなった。
「わたしね、あの人のことが好きだから
別れたの。史也が、息子が生まれてすぐに
あの人の様子がおかしくなって。それでも、
気付かないフリをしていればこのまま幸せ
が続くと思ってた。なのに、あることをき
っかけに裏切りを知ってしまって。知って
しまったら耐えられなかったの。夫婦でい
てもこの人はわたしを好きじゃない。そう
思ったら我慢できなくて、離婚しちゃった」
話しているうちに滲んできてしまった涙
を誤魔化そうと、凪紗は笑いながら指先で
拭う。十五年以上も経つというのに、思い
出せば心はその当時の痛みを取り戻してし
まって唇が震えた。
「ごめん。訊くべきじゃなかったね」
「ううん。先に訊いたのはわたしだし、
なんだか無性に話したくなっちゃったの。
それにね、あの人と結婚したことも離婚し
たことも後悔はしてないから。結婚指輪は
家の前の畑にぽーんっと投げちゃったけど」
「ほんとに!?」
「うん。すっきりした」
「ははっ、やるなあ」
誇らしげに胸を張って笑って見せた凪紗
に、嘉一が朗笑する。そして、ひとしきり
笑うと凪紗は居住まいを正した。



