①5人の貴公子たちの求婚失敗談
②竹取物語と月〜人間界との違い編〜
③竹取物語と月〜異世界編〜

①5人の貴公子たちの求婚失敗談
 国の中核の立場である皇子や、右大臣の求婚を断るということは、当時考えられない、ありえないことだったと思う。その人の権力や、富を拒むことになる。ありえなかった。そこから、かぐや姫は、この国の中核の一員には、なれないということが読み取れる。(当時結婚するということは、女性側が男性側の一族の一員になるということを示すことである。つまりかぐや姫は、国の中核の一員になれないということ。)
②竹取物語と月〜人間界との違い編〜
かぐや姫は「私は、月の都の者です。」と言い、「八月十五日」に月の世界に帰ってゆく。こうした物語は、輝く月の光によって、人々が想像をかき立てられた結果だと思う。月の清浄な光に対比されて、人間界は「きたなき所」と表現され、厭離穢土・欣求浄土という浄土教的な仏教思想にも繋がる。
 月の存在が地上の世界と対比されることで、人々の生きる地上の様子を浮き彫りにしている。理想郷としての月の都が提示されている。そこから、老い、死に、苦悩するきたなき所の地上の違いが明らかになるのである。そして、きたなき所であったとしても、人と人との心の通い合いや、思いやりといった、人間らしさあふれる地上を肯定し、その地上で生きていくことの尊さを物語っているように感じる。
 かぐや姫を迎えに天人がやって来るのは、仲秋の名月 が南中する「子の時ばかり」(深夜 12 時前後)。 「家のあたり、昼の明るさにも過ぎて光りたり。」(家の付近が、昼の明るさより増して、光り輝いた。)と、満月の明るさが誇張されている。 「雲に乗りて下り来て、地面より五尺ばかり上がりたる程 に、立ち連ねたり」と、地面より150cmほど上がった あたりに立ち並ぶ。けがれを避けるためか、天人たちが人間の住む地上に降り立つことはないということだと考える。
③竹取物語と月〜異世界編〜
調べたところ平安時代の都人は、月を愛で、敬い、そして怖れてもいたと思う。
 天体観測などできなかった時代、古人にとって月は神秘そのものだった。満ち欠けを繰り返し再生する月は、人の生と死のくり返しと重ねられ、不老不死の力を持つと信じられてきた。人びとは闇が支配する夜を嫌い、満月を仰ぎ見ては、暗い夜の向こうにある常世の国(あの世)から光が差しているというイメージを抱いた。月の光は「この世」と「あの世」をつなぐ通路で、その光の穴を通ってあの世へゆけるのが死者であり、あの世で再び生まれ変わるのだと考えられていた。