声が裏返った。男性は、ぎゅっとTシャツの裾をしぼって水を滴らせている。私の声に気がつき、顔をあげた。目があうと、私の顔は赤くなった。動揺しながら何か言わなくちゃ、と焦る。
「だ、大丈夫ですか」
 ふ、と男性は笑った。
「大丈夫。夏だし」
 そうだ。夏だ。7月だし、夏だ。思考回路がショートを起こしていて、次の言葉がみつからない。
 固まった私に、男性は言った。
「はじめまして。岩倉悟と言います。鈴ちゃんでしょ。S大の付属の女子高なんだってね。頭いいんだね」
 私は無言で頭を振った。頭、よくないです。ほら、今、私、日常会話もできなくなってる。
「そんなことな」
 そんなことないです、と言おうとしたら、百合姉が着替えてこっちにやって来た。
「悟、シャワー浴びたら?服とかお父さんのになるけど、貸すよ」
 結局、その日、悟さんはシャワーを借りて、服が乾くまで、と言っていたら夕飯どきとなり、うちで晩御飯を食べて帰って行った。
 その時、どんな話を家族で交わしたか、覚えていない。私は熱病にかかったみたいにぼーっとしていた。自分の着ていた部屋着が、小学生が着るみたいなキャラクターもので、その事をひたすら呪っていた。なんでこんなの着てるの。なんでなんでなんで。
 気がつくといつの間にか、悟さんはまた玄関先に立っていた。
「お邪魔しました」
 礼儀正しく、玄関先の母と私に頭を下げた。
「またいらっしゃいね」
 母が朗らかな声で言って、悟さんも、ほっとしたような顔で「はい、また」と言った。
「じゃ、私、そこまで送ってくる」
 そう言って百合姉がサンダルを履いた。二人は出て行ってしまった。
 取り残された私はぼうっと突っ立ったままだった。母が、言った。
「鈴、お風呂入ったら?」
 うん、と生返事をしながら頭の中では悟さんの登場から退場までをぐるぐる思いめぐらしていた。

 お風呂に入っても、ソファでテレビを見ていても、現実感がなかった。
 頭にあるのは悟さんのはにかんだような笑顔ばかりで、他のことが考えられない。
 ぼうっと熱病にかかったみたいな状態で、自分の部屋に行った。ぼんやりベッドに腰かけていると、帰ってきたばかりの百合姉が部屋に入ってきた。
「鈴。ねえ、悟っちのこと、どう思った?」
 びくん、と跳ねるように肩があがった。私が悟さんのことばかり考えているのがバレたのか。百合姉の顔を見ると、機嫌がいい時の癖で、小鼻がふくらんでいる。あ、バレてない。
 サトルサンノコトヲドウオモッタカ。口の中で言葉を転がして、やっと脳につながる。
「えっと、いい人、っぽいね」
 無難な答えを言う。百合姉は、ぶんぶん頭を振って頷いた。
「そうなんだよねえ。サークルでも、いっつも仕事押し付けられててさあ。でも愚痴とか言わないの。いい奴なんだよね。私から告っちゃった」
 てへっと、照れ笑いをした。百合姉は、英会話サークルに所属していて、そこで悟さんと出会ったらしかった。大学四年生の百合姉は、私より六歳年上だ。さっぱりした性格で、欲しいものは欲しい、と言う。考えすぎで、内にこもるタイプの私とは、全然違う。子供の頃、わしっとたくさんのお菓子をつかんだかと思うと「ほら」と、私にわけてくれた。六歳も違うので、ケンカの数も少なかった。
「うーん、ぐいぐいリードするタイプじゃないけど。なんとなく、長いつきあいになりそうな気がするんだよね」
 ツキアイ。あ、そうか。悟さんと百合姉はつきあってるんだ。
 当たり前のことが、やっと目の前にぶらさがった。ぐっと胸に重さを感じた。
「だからさ、鈴もよろしくね。悟も鈴のこと気に入ったみたいだったよ。可愛いねって言ってた」
 私は、かあっと顔を赤くした。
「おせじだよ。きっと」
「悟はおせじとか言わないタイプだよ。まあ、そういうわけだから。お風呂入ってこよっと」
 そう言った百合姉の唇がピンクだったのに気づいた。つやつやしている。晩御飯を食べた後、さっと口紅を塗ったんだ。悟さんを送るから。
 そのことが、とんでもない大事件のように思えた。私は部屋で一人になると、棚にあった化粧ポーチを手にした。ひっくり返して机の上に中身を出す。オモチャみたいなリップと、お土産でもらった油とりがみ。それに100均で買ったアイシャドウ。それだけしかなかった。
 化粧道具の少なさが、私と百合姉の違いを決定的なものにしていた。私は、あまりの自分の子供っぽさに愕然として、机につっぷした。
 昼間考えていた明日の球技大会のことなんて、もはやどうでもよかった。
 その瞬間、頭に浮かんだものがあった。
「あ」
 明日、学校に行かなくちゃ。そう思った。
 
 翌日は晴れていて、球技大会にはぴったりだった。私は、バレーボールに参加した。意外にも勝ち進んた。そんな時でも、中田は私にボールをぶつけるのをやめなかった。痛みは昨日よりも増していたが、どうでもよかった。そして三試合目で負けた。
 そんなことよりも、もっと大事なことが私にはあった。
 昼休み、教室でお弁当を食べていた私に、中田が子分を三人くらい連れてやってきて言った。
「坂本、あんたのせいで、バレー負けたんだからね。ぼーっと飯食ってんじゃねえよ」
 中田がどついてくる前に、私は、椅子から立ち上がった。
「な、何よ」
 いつも黙ってやり過ごす私が動いたので怯んだようだった。私はそんなこと眼中になく、言った。
「ねえ。そのリップ、どこで買ったの」
「は?お前、何言ってんだよ」
「どこで買ったって訊いてるの」
 昨日の晩、思い出したのだ。百合姉のしていた口紅の色が、自称美少女の中田のリップの色と同じだったことを。
「うぜえよ、なんだよ」
「答えて。どこで買ったの」
 私は、考えるよりも先に手が出ていて、中田の肩を揺すっていた。中田はうざい、やめろ、なんだよ、と私をどついてきたが、私は全くこたえなかった。
 最終的には、私は中田の上に馬乗りになっていた。
「どこで買ったの。ブランドは何」
「ドラッグストアのシャイニーリップ」
 そこまで言うと、中田はわぁんと泣き始めた。私は訊きたいことが訊けたので、中田の上から降りた。私は、ぼんやり窓の外を眺め、早く放課後にならないかな、買いに行かなくちゃ、と思った。
 その馬乗り事件があったせいか、私は「やばい奴」認定されて、いじめは終わった。それからしばらくして、同クラの岬から声をかけられた。
「後だしじゃんけんみたいでごめん。よかったらお昼、一緒に食べない?」
 岬とは、26歳になった今でも、たまに飲みに行ったりする仲だ。後だしじゃんけんって、と未だにその時のセリフで盛り上がったりする。
 私は悟さんとつきあっている百合姉みたいになりたくて必死だった。その必死さが好転した結果だった。
 好転したことは他にもあった。私は、宿題は当然、勉強の予習復習をきっちりやるようになった。
「頭いいんだね」
 と、悟さんは言った。その言葉を否定したくなくて、勉強を頑張った。赤点なんて取ったら最後、
百合姉に「ねえ。鈴、赤点取ったんだよ」なんて、悟さんに言ってしまうかもしれない。
「やっぱり馬鹿だったんだな」とちらりとでも悟さんに思われたら死んでしまいそうだった。次に会ったときも、「ああ鈴ちゃんはやっぱり頭いいんだねえ」と言われたかった。
 16歳になるまで、私はどちらかと言うと無欲だった。特になりたいものもなかったし、欲しいものもなかった。
 だが、悟さんと出会ってしまってから、欲望まみれになった。
 頭がいいと思われたい。欲望はそんなところで留まらない。またいつ、百合姉が悟さんを家に連れてくるかわからない。
 その時、頭いいだけじゃなく、可愛いとか色っぽいとかも思ってほしかった。
 私は球技大会が終わってすぐ、お年玉をはたいて、ドラッグストアで化粧品を買った。勉強が終わったら、私は、机の上に鏡を置いて、せっせと化粧の練習をした。スマホのユーチューブをガンガン見て、技を習得していった。
 そしてそれは、想像以上にうまくいった。やはり私と百合姉は姉妹なのだ。骨格が似ているのか、百合姉をよく知らない人だったら、百合姉と間違えるくらいのレベルに、私はなった。
 次は、服装だった。お金がもう残り少なかったから、古着屋さんに行った。百合姉は、結構、露出の多い服を着る。今は夏なので、なおさらそうだ。
 濃い色のシャツと、ショートパンツを買った。それを着たところを家族に見られるのが恥ずかしくて、日曜日の午後、そっと家を出た。

 繁華街に行くと、悟さんとばったり会わないか、そればかりを考えてぐるぐると歩き回った。
 歩いても、歩いても悟さんは、現れない。逆に、やたらとナンパされた。何て言えばいいかわからず、「すみません、すみません」と念仏のように唱えて逃げた。しつこいタイプからは走って逃げた。走ったり運動が苦手な私は、すぐぜいぜい言って息が切れた。
 ちぇっ、やっぱり街で偶然出会うなんて、ないんだ。
 私はすごすごと家に帰り、さっと化粧を落とした。部屋着も普段のものを着る。
 リビングに行くと、百合姉が、大学の勉強をしていた。そうか、試験が近いんだ。私は麦茶を二杯入れて、グラスの一つを百合姉の脇に置いた。
「あら、ありがと。ちょっと休憩したかったんだよね」
 美味しそうにごくごくと麦茶を飲んだ。私は緊張しているのがバレないよう、必死に普通を装って訊いた。
「今日は、悟さんと会わないの」
「あー、試験前だからね。まあもっとも悟は頭いいから私みたいな詰め込み式の勉強はしないけど」
 恰好いいだけでなく、頭もいいんだ。私は胸がわくわくしてきた。