忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

「二階、廊下の一番奥」

 それだけを繰り返しながら歩く。

 幸い、建物までは間違えなかった。

 階段を上がる。

 知らない建物。

 知らない廊下。

 いくつもの部屋が並んでいる。

 軽音サークル。

 軽音サークル。

 軽音――。

「……あ」

 奥に、それらしい部屋を見つけた。

 扉の横に、軽音サークルの名前が書かれた紙が貼ってある。

「ここだ」

 ちゃんと辿り着いた。

 たったそれだけなのに少し嬉しくなる。

 直充に自慢しよう。

 迷ったことは言わなくてもいいかもしれない。

 そんなことを考えながら扉へ近づいたときだった。

 ――音がした。

 亜美の足が止まる。

 鍵盤の音。

 扉の向こうから聞こえてくる。

 一音。

 また一音。

 誰かがキーボードを弾いている。

 亜美は無意識に扉へ近づいた。

 普段から音楽はよく聴く。

 特にピアノが好きだった。

 歌詞がないからいい。

 何も言葉にされないから、その日の自分の気持ちを無理に決められない。

 寂しい日に聴けば、寂しい曲になる。

 安心したい日に聴けば、優しい曲になる。

 何も考えたくない日には、ただ綺麗な音として流れてくれる。

 学校でもよく聴いていた。

 誰とも話さずに済む時間を、ピアノの音が埋めてくれる。

 だから好きだった。

 けれど。

 扉の向こうから聞こえる音は、亜美が普段イヤホンで聴いているものとは少し違った。

 繊細だった。

 そっと触れなければ壊れてしまいそうなほど静かな音が続いたかと思えば――突然、強くなる。

 荒々しいほど鍵盤が鳴る。

 驚いて胸が跳ねる。

 それなのに次の瞬間には、何事もなかったように優しい音へ戻っていく。

 まるで、誰かの感情をそのまま聴かされているみたいだった。

 亜美は扉の前から動けなくなった。

 もっと聴きたい。

 理由も分からないまま、そう思った。

 曲が終わる。

 静かになった。

 途端に、さっきまでそこにあったものを取り上げられたような気がした。

 そこでようやく我に返る。

 ――入っていいのかな。

 兄からは先に部室へ行けと言われた。

 だから入っていいはず。

 でも誰かいる。

 ノックをするべきだろうか。

 今さら入ったら、ずっと聴いていたことがばれてしまう。

 それはなんだか恥ずかしい。

 亜美が迷っていると。

「入ってこないの?」

「……え?」

 突然、中から声がした。

 亜美は固まった。

 心臓が跳ねる。

 扉が完全に閉まっていなかったらしい。

 少しだけ開いている。

「さっきからそこにいるだろ」

「あ……」

 ばれていた。

 急に恥ずかしくなる。

「すみません」

「なんで謝んの?」

「勝手に聴いてたから」

「別にいいよ。聴かれたくないなら、こんなとこで弾いてないし」

 男の声だった。

 亜美は少し迷ってから、扉に手をかけた。

 ゆっくり開く。

 最初に見えたのは、黒いキーボード。

 そして、その前に一人の男子学生が座っていた。

 亜美よりずっと大人に見えた。

 当然だ。

 大学生なのだから。

 けれど、それだけではなかった。

 知らない人なのに、なぜか目が離れない。

 さっきまであの音を鳴らしていた人。

 そう思った瞬間、その人の指先へ視線が落ちた。

 鍵盤に置かれた手。

 あの繊細な音も、突然荒々しくなった音も、全部この手から生まれたのだ。

 彼は鍵盤に片手を置いたまま、こちらを見る。

「見学?」

「はい」

「そっか。高校生だもんな」

 亜美は自分の制服を見下ろす。

「兄に、ここで待っててって言われて」

「兄?」

「直充です」

「ああ」

 彼の顔に納得したような表情が浮かぶ。

「直充の妹?」

「はい」

「へえ。あいつ、妹いたんだ」

「言ってないんですか?」

「男同士で妹の話なんか、わざわざしないだろ」

「そういうものなんですね」

「まあ、そんなもんじゃない?」

「分からないです」

「俺も妹いないから知らないけど」

「じゃあ同じですね」

「何が?」

「分からない同士」

 一瞬、沈黙する。

 言ってから気づく。

 ――変なこと言ったかも。

 亜美の胸に小さな焦りが生まれた、その直後。

「……はは。何それ」

 彼が笑った。

「直充の妹、結構おもしろいな」

 ほっとした。

 なぜ安心したのか、自分でもよく分からなかった。

「……よく分からないって言われます」

「そっちなんだ」

 亜美は少し恥ずかしくなって、視線を逸らした。

 すると、また鍵盤が目に入る。

「それ」

「ん?」

「さっき弾いてたの、先輩ですか?」

「俺しかいないだろ」

「そうでした」

「やっぱおもしろいな」

「忘れてください」

「無理」

 また笑われる。

 でも、不思議と嫌ではなかった。

 むしろ、もう少し話していたいと思った。

 亜美はキーボードを見る。

「すごく綺麗でした」

「ありがと」

「でも途中、ちょっと怖かったです」

「怖い?」

「最初はすごく優しかったのに、途中から怒ってるみたいで」

 彼が少し驚いた顔をした。

「……へえ。そんなふうに聴こえた?」

「はい」

「そっか」

 彼は鍵盤へ視線を落とした。

 指先で一つだけ音を鳴らす。

 たった一音なのに、亜美の耳はそこへ引き寄せられる。

「ちゃんと聴いてたんだな」

「変でした?」

「いや。そういう感想、結構好きだよ」

 亜美の胸が、ほんの少しだけ跳ねた。

 ――好き。

 もちろん、感想の話だ。

 分かっている。

 それなのに、なぜかその言葉だけが耳に残った。

「ピアノ好き?」

「好きです」

「弾く?」

「聴くだけ」

 そう答えてから、亜美はほんの少しだけ後ろめたくなった。

 本当は、弾けないわけではない。

 小さい頃に少し習っていたから、簡単な曲なら今でも弾ける。

 けれど。

 さっきの演奏を聴いたあとでは、自分も弾けますなんて、とても言えなかった。

 あんなふうに。

 音ひとつで誰かの心を奪ってしまうような演奏を前にしたら。

 自分のものなんて、「弾ける」のうちには入らない気がした。

 それに今は。

 自分が弾くことより、この人の音をもっと聴いていたかった。

「クラシックは?」

「聴きます」

「じゃ、ちょっと聴いてみる?」

「本当ですか?」

 自分でも分かるほど、声が少し弾んだ。

「昔やってたから。まあ、ちょっとだけな」

 そう言って、彼の指が鍵盤に触れる。

 音が生まれる。

 先ほどとは違う音。

 亜美は瞬きを忘れた。

 キーボードなのに。

 目の前に本物のピアノがあるように感じた。

 派手ではない。

 ただ、綺麗だった。

 さっきの演奏よりもずっと静かで。

 どこか寂しい。

 胸の奥に、そっと指を差し込まれているような気がした。

 知らないはずの感情を、知っている音にされている。

 亜美は立ったまま聴いていた。