忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

 その日の放課後。

 亜美は塾へ向かった。

 いつもの教室。

 いつもの席。

 学校とは違う。

 ここに来ると、少しだけ息がしやすい。

 授業が終わってから。

 亜美は丈を見つけた。

「先生」

「ん?」

 丈が振り返る。

「亜美」

 いつもの声。

 それだけで。

 亜美の肩から、少し力が抜けた。

「どうした?」

「……昨日ね」

「うん」

「学校で、ちょっと嫌なことがあった」

 丈の表情が変わる。

「何された?」

「ロッカーに水かけられた」

「…………」

「鞄も、教科書も濡れた」

 丈は少し黙った。

「誰に?」

「分からない」

「心当たりは?」

「……あるけど」

「そっか」

 丈は亜美を見た。

「怖かった?」

「…………」

 その一言で。

 昨日から胸の奥に押し込めていたものが、少しだけ緩んだ。

「……うん」

 亜美は頷いた。

「怖かった」

 丈は、いつものように最後まで聞いてくれた。

 亜美が言葉に詰まっても。

 急かさなかった。

 女子たちが笑っていたこと。

 何も言えなかったこと。

 濡れたものを一人で拭こうとしたこと。

 全部。

 丈の前なら話せた。

 怖かったことも。

 嫌だったことも。

 上手く言葉にできないことも。

 亜美が少しずつ話すたびに、丈は黙って聞いてくれる。

 それだけで。

 胸の中に残っていたものが、少しずつ外へ出ていくような気がした。

「それでね」

「うん」

「男の子が、助けてくれた」

 丈の目が。

 ほんの少しだけ細くなった。

「……男の子?」

「同級生」

「友達?」

「昨日初めて話した」

「へえ」

 丈は笑った。

 いつもと同じ。

 優しい笑顔。

「どんな子?」

「変な人」

「変な人?」

「うん」

 亜美も少し笑った。

「頼んでないのに雑巾取りに行って、タオルまで持ってきて」

「…………」

「一緒に拭いてくれた」

「優しい子なんだね」

「うん」

 亜美は少し考える。

 優しい。

 たぶん、そうなのだと思う。

 昨日まで話したこともなかった自分のために、あそこまでしてくれたのだから。

「今日、一緒にお昼食べた」

「…………」

 ほんの一瞬。

 丈の表情が止まった。

 けれど。

 亜美は気づかなかった。

「屋上で?」

「うん」

「二人で?」

「うん」

「……そっか」

 丈は笑った。

「友達できたんだ」

「友達……」

 亜美は、その言葉を繰り返した。

 群司。

 友達。

 そう言われると。

 まだ少し不思議な感じがする。

「……そうなのかな」

「亜美が嫌じゃないなら、そうなんじゃない?」

「嫌じゃない」

 すぐに答えた。

 丈の胸の奥に。

 小さな何かが刺さった。

 ――嫌じゃない。

 亜美が学校の誰かについて。

 そんなふうに迷いなく答えるのを。

 初めて聞いた気がした。

「先生?」

「ん?」

「どうしたの?」

「何でもないよ」

 丈はいつものように笑った。

「その子、大切にしないとね」

「……うん」

「学校で初めてできた友達なんでしょ?」

「うん」

 亜美は少しだけ考えて。

 小さく笑った。

 学校で初めてできた友達。

 その言葉は。

 まだ自分のものではないみたいで、少しくすぐったかった。

 その顔を見て。

 丈も笑う。

 優しく。

 いつも通りに。

 けれど。

 胸の奥では。

 自分でもまだ名前をつけたくない感情が。

 ほんの少しだけ。

 形を持ち始めていた。

 亜美の世界に。

 また、自分の知らない誰かが入った。

 ただ。

 それだけのことなのに。

「…………」

 面白くない。

 そんな感情を。

 丈は笑顔の奥へ隠した。

 そして。

 何も知らない亜美の頭に。

 いつものように。

 そっと手を置いた。

「よかったね、亜美」

「うん」

 亜美は素直に頷いた。