ある日の夜。
「亜美、今日も残るの?」
「はい」
「最近ずっとじゃない?」
「そうですか?」
「そうだよ」
授業はとっくに終わっている。
仲のいい女子生徒たちは先ほど帰っていった。
それでも亜美だけは自習室に残っていた。
「家だと集中できない?」
「家でもできます」
「じゃあ受験勉強?」
「それもあります」
「それも?」
亜美は少し黙った。
丈は深く考えずに聞いた。
「学校の友達と勉強したりしないの?」
「しません」
返事が早かった。
「塾の友達とはよく喋ってるのに」
「塾には友達いるので」
「学校は?」
「いません」
あまりにも普通に言うので、丈の方が反応に困った。
「……一人も?」
「はい」
亜美は参考書をめくる。
まるで今日の宿題について話しているような口調だった。
「別に困ってないです」
「そうなの?」
「学校は授業受けるところなので」
「割り切ってるな」
「塾に来れば話す人もいるし」
そこで亜美は顔を上げた。
「先生もいるし」
「俺?」
「はい」
「友達枠?」
「先生枠です」
「そこはちゃんと分けるんだ」
「先生ですから」
当然のように言って、亜美はまたノートへ視線を戻した。
丈は何も言わなかった。
ただ、その言葉が妙に残った。
――先生もいるし。
大した意味などない。
亜美にとっては、塾に来る理由を並べただけなのだろう。
それでも。
「だから、ここにいること多いの?」
丈が聞く。
亜美は少し考えて、
「たぶん」
と答えた。
「家に帰るより?」
「家が嫌なわけじゃないですよ」
「分かってる」
「ただ……」
亜美が窓の外を見る。
夜のガラスに、自習室の明かりと亜美自身の顔が映っていた。
「ここにいる方が、楽なんです」
それ以上、丈は聞かなかった。
何となく、聞いてはいけない気がしたからだ。
「じゃあ勉強しろ」
「してます」
「さっきから全然ページ進んでない」
「あれ?」
「ほら」
「……なんででしょう」
「知らないよ」
亜美が困ったように笑う。
丈も笑った。
けれどその日から。
自習室の窓際を見ることが、丈の癖になった。
亜美がいるか。
今日も残っているか。
ちゃんと勉強しているか。
また同じページをぼんやり眺めていないか。
最初はただ、目を引く生徒だった。
次に、少し変わった生徒になった。
そしていつの間にか。
姿が見えない日は、
――今日は来てないのか。
そう思う程度には、丈の日常の中に亜美が入り始めていた。
この頃の丈はまだ、それを特別な感情だとは思っていなかった。
亜美にとっても同じだった。
丈は話しやすい塾の先生。
質問すれば教えてくれる。
くだらない話にも付き合ってくれる。
学校とは違って、ここなら少しだけ息がしやすい。
それだけだった。
これから亜美には、いくつもの出会いが待っている。
誰かに憧れ、誰かに救われ、誰かを好きになる。
そのたびに、自分でもまだ知らない感情をひとつずつ知っていく。
けれど、そのすべてが始まるよりも前に。
亜美が何でも話せる場所になり始めていたのは――丈の隣だった。
「亜美、今日も残るの?」
「はい」
「最近ずっとじゃない?」
「そうですか?」
「そうだよ」
授業はとっくに終わっている。
仲のいい女子生徒たちは先ほど帰っていった。
それでも亜美だけは自習室に残っていた。
「家だと集中できない?」
「家でもできます」
「じゃあ受験勉強?」
「それもあります」
「それも?」
亜美は少し黙った。
丈は深く考えずに聞いた。
「学校の友達と勉強したりしないの?」
「しません」
返事が早かった。
「塾の友達とはよく喋ってるのに」
「塾には友達いるので」
「学校は?」
「いません」
あまりにも普通に言うので、丈の方が反応に困った。
「……一人も?」
「はい」
亜美は参考書をめくる。
まるで今日の宿題について話しているような口調だった。
「別に困ってないです」
「そうなの?」
「学校は授業受けるところなので」
「割り切ってるな」
「塾に来れば話す人もいるし」
そこで亜美は顔を上げた。
「先生もいるし」
「俺?」
「はい」
「友達枠?」
「先生枠です」
「そこはちゃんと分けるんだ」
「先生ですから」
当然のように言って、亜美はまたノートへ視線を戻した。
丈は何も言わなかった。
ただ、その言葉が妙に残った。
――先生もいるし。
大した意味などない。
亜美にとっては、塾に来る理由を並べただけなのだろう。
それでも。
「だから、ここにいること多いの?」
丈が聞く。
亜美は少し考えて、
「たぶん」
と答えた。
「家に帰るより?」
「家が嫌なわけじゃないですよ」
「分かってる」
「ただ……」
亜美が窓の外を見る。
夜のガラスに、自習室の明かりと亜美自身の顔が映っていた。
「ここにいる方が、楽なんです」
それ以上、丈は聞かなかった。
何となく、聞いてはいけない気がしたからだ。
「じゃあ勉強しろ」
「してます」
「さっきから全然ページ進んでない」
「あれ?」
「ほら」
「……なんででしょう」
「知らないよ」
亜美が困ったように笑う。
丈も笑った。
けれどその日から。
自習室の窓際を見ることが、丈の癖になった。
亜美がいるか。
今日も残っているか。
ちゃんと勉強しているか。
また同じページをぼんやり眺めていないか。
最初はただ、目を引く生徒だった。
次に、少し変わった生徒になった。
そしていつの間にか。
姿が見えない日は、
――今日は来てないのか。
そう思う程度には、丈の日常の中に亜美が入り始めていた。
この頃の丈はまだ、それを特別な感情だとは思っていなかった。
亜美にとっても同じだった。
丈は話しやすい塾の先生。
質問すれば教えてくれる。
くだらない話にも付き合ってくれる。
学校とは違って、ここなら少しだけ息がしやすい。
それだけだった。
これから亜美には、いくつもの出会いが待っている。
誰かに憧れ、誰かに救われ、誰かを好きになる。
そのたびに、自分でもまだ知らない感情をひとつずつ知っていく。
けれど、そのすべてが始まるよりも前に。
亜美が何でも話せる場所になり始めていたのは――丈の隣だった。


