忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

「借りてきた」

 亜美が顔を上げる。

 群司が戻ってきた。

 片手には雑巾。

 もう片方には、白いタオル。

「……二つ?」

「雑巾借りに行ったら、保健室のおばちゃんがこれもくれた」

 群司がタオルを持ち上げる。

「鞄とか教科書を雑巾で拭くのは汚いだろって」

「……そうなんだ」

「だから、こっち使おう」

 群司は迷うことなくタオルを手に取った。

「亜美さん、鞄出して」

「私がやるよ」

「じゃあ一緒にやろ」

「……一緒に?」

「一人より早いじゃん」

 あまりにも当たり前のように言われて。

 亜美は何も返せなくなった。

「……うん」

 群司が濡れた教科書を一冊手に取る。

 白いタオルを当てる。

 ごしごし擦るのではなく。

 表紙の水分を吸わせるように、そっと押さえた。

「これ、結構濡れてるな」

「……うん」

「乾かしたら戻るかな」

「分からない」

「ノートは……ちょっと厳しいか」

「…………」

「あ」

 群司が亜美を見る。

「ごめん」

「何が?」

「余計落ち込ませた?」

「……大丈夫」

「また大丈夫って言った」

「え?」

「さっきも言ってた」

「……大丈夫だから」

「そっか」

 群司はそれ以上否定しなかった。

 ただ。

 タオルを教科書に当てながら。

「じゃあ、大丈夫な亜美さんをちょっと手伝う」

「…………」

 亜美は目を丸くした。

「……変な人」

「え?」

「変」

「初めて話した人にそれ言う?」

「だって変だから」

「助けてんのに?」

「頼んでない」

「それはそう」

 群司が笑った。

「勝手にやってる」

「……うん」

「そこは否定してよ」

 亜美の口元が。

 ほんの少しだけ緩んだ。

 群司が手を止める。

「……あ」

「何?」

「笑うんだ」

「…………」

 亜美の表情が消えた。

「ごめん」

「何それ」

「いや、悪い意味じゃないって」

「じゃあ、どういう意味?」

「いつも静かだから」

「……見てたの?」

 言われて。

 群司は一瞬、言葉に詰まった。

「……たまに」

「どうして?」

「屋上で見かける」

「屋上?」

「うん」

「群司くんも来るの?」

「いや」

 群司は笑った。

「俺、昼はだいたい教室。友達と飯食ってるから」

「じゃあ、どうして」

「たまたま通るといるんだよ」

「……私が?」

「うん」

 亜美は少し不思議そうな顔をした。

「いつもイヤホンしてるよな」

「うん」

「何聴いてんの?」

「ピアノ」

「ピアノ?」

「うん」

「クラシックとか?」

「それも聴く」

「へえ」

 群司が少し意外そうな顔をする。

「……変?」

「何で?」

「意外そうだから」

「いや」

 群司は少し考える。

「何か、納得した」

「どうして?」

「いつもあんな静かに聴いてるから」

「…………」

「どんな曲なんだろって、ちょっと気になってた」

「そうなんだ」

「歌とかは聴かない?」

「聴くけど」

 亜美は濡れたノートを押さえながら答える。

「歌詞がある曲は、ときどき疲れる」

「疲れる?」

「うん」

「何で?」

 亜美は少し迷った。

 こんな話。

 初めて話す人にするようなことなのだろうか。

 でも。

 群司はただ待っている。

 変だと笑う様子もない。

「……言葉があるから」

「言葉?」

「好きとか」

「うん」

「寂しいとか、会いたいとか」

「うん」

「言葉があると、これはこういう気持ちですって決められるみたいで」

 群司が黙った。

 亜美は少し不安になった。

「……変だよね」

「いや」

 群司は首を横に振った。

「なんか分かるかも」

「分かる?」

「全部は分かんないけど」

 群司は少し考えて。

「勝手に決められるの、嫌だもんな」

「…………」

 亜美の手が止まった。

 勝手に決められる。

 その言葉が。

 胸の奥に落ちた。

 大人っぽい。

 モテる。

 男好き。

 見た目と中身が違う。

 自分の知らないところで。

 知らない自分が作られていく。

「……うん」

 亜美は小さく頷いた。

「嫌」

 今までより。

 少しだけ強い声だった。

 群司は何も言わなかった。

 ただ。

「そっか」

 それだけ答えた。

 その「そっか」が。

 亜美には少しだけ心地よかった。