忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

「……それ、どうした?」

「…………」

 初めて。

 群司と目が合った。

 今まで廊下ですれ違ったことはある。

 名前も知っている。

 いつも友達に囲まれている人。

 でも。

 話したことはない。

「水?」

「……うん」

「何か漏れた?」

 亜美は首を横に振った。

「じゃあ……」

 群司が濡れたロッカーを見る。

 そして。

 少し離れた場所にいる女子たちへ目を向けた。

「誰かにやられた?」

「…………」

 亜美は答えられなかった。

 誰がやったのか。

 本当は分からない。

 証拠もない。

 ただ。

 そうだと思うだけ。

「……分からない」

 初めて。

 亜美が群司に言葉を返した。

 群司は少しだけ目を見開いた。

 声。

 初めて聞いた。

 思っていたより。

 ずっと小さくて、柔らかい声だった。

「そっか」

 それ以上、群司は聞かなかった。

 もう一度。

 濡れたロッカーを見る。

 そのときだった。

「行こ」

 少し離れたところから、女子の声がした。

「うん」

 くす、と。

 小さな笑い声。

 群司の視線が、そちらへ向いた。

「ねえ」

 女子たちの足が止まった。

「……何?」

 群司は亜美のそばから動かなかった。

「さっきから、何笑ってんの?」

「え?」

「こっち見て笑ってたよな」

「別に笑ってないけど」

「笑ってたじゃん」

 声は大きくない。

 怒鳴ってもいない。

 けれど。

 さっきまで友人たちと話していたときの明るい笑顔は、もうなかった。

「……何?」

「いや」

 群司は濡れたロッカーへ目を向ける。

「これ見て笑ってたなら、普通に感じ悪いなって思って」

 女子の一人が眉を寄せた。

「私たちがやったって言いたいの?」

「言ってない」

 群司はすぐに答えた。

「俺、やったところ見てないし」

「じゃあ何なの?」

「だから」

 群司が女子たちを見る。

「誰がやったかは知らない」

 一拍。

「でも、困ってる人見て笑ってんのは見た」

「…………」

「それは普通にダサくない?」

 女子たちの表情が固まった。

「別に……私たちには関係ないし」

 一人が小さく言った。

「関係ないなら」

 群司は答える。

「笑わないで、そのまま行けばいいじゃん」

「…………」

「誰がやったか知らないけどさ」

 群司は濡れたロッカーへ目を向けた。

「こういうの見て笑えるの、俺は普通に嫌い」

 女子たちは黙った。

 群司は怒鳴らない。

 睨みつけるわけでもない。

 ただ。

 笑っていなかった。

 それだけなのに。

 普段の群司を知っている人間には、その方がずっと分かりやすかった。

 怒っている。

「……行こ」

 一人が呟く。

 女子たちはそのまま歩いていった。

 群司は追いかけなかった。

 何かを言い返すこともしなかった。

 ただ。

 その背中が遠ざかるのを黙って見ていた。

「…………」

 亜美は。

 隣に立つ群司を見上げていた。

 怒っていた。

 自分のために――

 そう思いかけて。

 違うのかもしれない、と亜美は思った。

 この人はきっと。

 誰がここにいても。

 同じことを言った。

 困っている人を見て笑うことが。

 ただ、嫌だったのだ。

 群司が振り返る。

「で」

 さっきまでの空気を引きずることもなく。

 濡れたロッカーを指さした。

「これ、どうしよっか」

「……え?」

「ハンカチじゃ無理だろ」

「…………」

 切り替わりが早すぎて。

 亜美は少し戸惑った。

「……怒ってた?」

「俺?」

「うん」

「まあ……ちょっと」

「どうして?」

「どうしてって……」

 群司は少し考えた。

「ああいうの、嫌いなんだよ」

「…………」

「困ってる人見て笑うの」

 それだけだった。

「……そっか」

「うん」

 群司はロッカーを見る。

「とりあえず、雑巾借りてくる」

「大丈夫」

 群司の足が止まる。

「……大丈夫?」

「うん」

 群司は濡れた鞄と、亜美の手の中ですっかり濡れてしまったハンカチを見る。

「全然大丈夫そうに見えないけど」

「…………」

「まあいいや」

「え?」

「亜美さんが大丈夫でも、俺が気になるから」

 そう言って。

 群司は走っていった。

「……」

 亜美は、その背中を見送った。

 何だったんだろう。

 頼んでないのに。

 そう思った。

 でも。

 嫌ではなかった。