忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

 午後。

 体育の授業が終わった。

 亜美は更衣室で制服に着替え、教室へ戻る。

 廊下には、クラスごとの個人ロッカーが並んでいた。

 次の授業で使う教科書を取ろうと、自分のロッカーの前まで来て。

 亜美は足を止めた。

「……?」

 扉が。

 少し開いている。

 閉め忘れただろうか。

 そう思った。

 何も疑わず、扉に手をかける。

 開いた。

「……え」

 動けなくなった。

 中が。

 濡れている。

 教科書。

 ノート。

 置いてあった鞄。

 全部。

 水をかけられたように、びしょ濡れになっていた。

 ぽた。

 ぽた。

 ロッカーの扉から床へ、水滴が落ちている。

「…………」

 何が起きたのか。

 すぐには理解できなかった。

 亜美はゆっくり鞄を取り出す。

 冷たい。

 手に、水がつく。

 鞄を開く。

「……っ」

 中まで濡れていた。

 ノートの端がふやけている。

 教科書のページは水を吸って、重くなっている。

 筆箱まで濡れていた。

「……なんで」

 小さく声が漏れた。

 飲み物?

 違う。

 そんなものはロッカーに入れていない。

 そもそも。

 こんなふうに、ロッカーの中全体が濡れるはずがない。

 そのとき。

 少し離れたところから、笑い声が聞こえた。

「…………」

 亜美が顔を上げる。

 廊下の先。

 数人の女子がいた。

 こちらを見ている。

 目が合った。

 すると。

 すぐに顔を逸らされた。

 何かを囁く。

 また。

 小さく笑う。

 胸の奥が、すっと冷たくなった。

 ――偶然じゃない。

 分かってしまった。

「…………」

 誰がやったの。

 そう聞けばいい。

 どうしてこんなことするの。

 そう言えばいい。

 でも。

 身体が動かなかった。

 声も出ない。

 怖かった。

 もし聞いて。

『知らない』

 と言われたら。

 もし笑われたら。

 もっと酷いことを言われたら。

 どうしたらいいのか分からない。

「……拭かなきゃ」

 やっと出てきたのは、それだけだった。

 亜美はポケットからハンカチを取り出す。

 ロッカーの中を拭く。

 すぐに水を吸った。

 それでも。

 また拭く。

 何かをしていないと。

 泣いてしまいそうだった。

 ――先生。

 丈の顔が浮かぶ。

 塾へ行ったら話そう。

 先生なら聞いてくれる。

 何も悪くないって言ってくれる。

 だから。

 今は。

 大丈夫。

 大丈夫だから。

「……亜美さん?」

 突然。

 後ろから声がした。

 肩が跳ねた。

 振り返る。

 爽やかな黒髪。

 上げた前髪。

 シャツの第一ボタンを外し、ネクタイも少し緩めている。

 群司だった。

 少し離れたところには、数人の男子がいる。

「群司、行くぞー」

「ちょっと待って!」

 友人へ返事をしてから。

 群司は、もう一度亜美を見る。

 正確には。

 亜美の手に握られた、びしょ濡れのハンカチ。

 開いたロッカー。

 濡れた鞄。

 床に落ちた水滴。

 群司の顔から、笑顔が消えた。