忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

「遊んでる?」

「女の子と」

「…………」

「結構、遊び人」

 亜美の表情が曇った。

 さっきまで、好きだと自覚したことを嬉しそうに話していたのに。

「そう……なんだ」

 丈の胸に、ほんの少しだけ罪悪感が生まれる。

 嘘ではない。

 幸也が女性との付き合いを何度も繰り返しているのは事実だった。

 来る者は拒まず。

 去る者は追わない。

 相手に本気を求めることもなければ、自分から深く踏み込むこともない。

 丈はそれを知っている。

 だから、嘘ではない。

 ただ。

 伝える事実を選んだ。

「彼女、いるんですか?」

「今は知らない」

「女の人とは、よく会ってる?」

「まあね」

「……そっか」

 亜美は俯いた。

 指先で、自分のスカートを小さく摘まむ。

「変かな」

「何が?」

「それ聞いて、嫌だって思うの」

「好きなら普通じゃない?」

「……そっか」

 亜美はまた少し考える。

「私、何も知らないんだ」

 その声が少し寂しそうで。

 丈は一瞬、言い過ぎたかと思った。

 幸也は遊び人だ。

 でも、それだけの男ではない。

 そのくらい丈も知っている。

 本当なら、そう言えばいい。

 亜美が知らない幸也の良いところだって、教えようと思えば教えられる。

 けれど。

「亜美には、ちょっと早いかもね」

 口から出たのは、違う言葉だった。

「……何が?」

「幸也みたいな男」

 亜美が顔を上げる。

「私、子供ですか?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ何?」

「亜美、そういうの慣れてないだろ」

「そういうの?」

「恋愛とか」

「……はい」

「幸也は、そういう意味じゃ亜美よりずっと慣れてる」

「…………」

「だから」

 丈は笑った。

 いつもと同じ。

 亜美が安心する笑い方で。

「分からないことがあったら、俺に聞けばいいよ」

 亜美は瞬きをした。

「先生に?」

「うん」

「恋愛のことも?」

「今だって相談してるじゃん」

「あ」

 亜美は少し考える。

「……確かに」

「気づいてなかった?」

「うん」

「だと思った」

「先生、ひどい」

「褒めてる」

「絶対違う」

 亜美が笑った。

 さっきまで少し曇っていた顔が、また柔らかくなる。

 丈はそれを見ていた。

「じゃあ」

 亜美は少し考えてから言った。

「これからも先生に相談します」

「どうぞ」

「いっぱいするかも」

「ほどほどにして」

「嫌なんですか?」

「嫌とは言ってない」

「じゃあします」

「人の話聞いてる?」

「聞いてます」

「本当に?」

「はい」

 亜美は笑っていた。

 安心していた。

 幸也がどんな人なのか分からなくても。

 恋愛がどういうものなのか分からなくても。

 困ったら、丈に聞けばいい。

 丈なら知っている。

 丈なら教えてくれる。

 丈なら、自分の話を聞いてくれる。

 それは亜美にとって、あまりにも自然なことだった。

 学校のことも。

 家族のことも。

 友達のことも。

 進路のことも。

 そして、これからは。

 好きな人のことも。

 何かあったら、丈に話す。

 亜美はそれを少しもおかしいとは思わなかった。

「先生」

「ん?」

「幸也先輩のこと、好きでいてもいいですよね」

 丈は一瞬だけ黙った。

「……なんで俺に許可取るの?」

「なんとなく」

「亜美の好きにすればいいよ」

「そっか」

「うん」

「じゃあ、好きでいます」

 亜美は小さく笑った。

 丈も笑った。

 けれど。

 その言葉を聞いたとき。

 胸の奥に生まれたものだけは、笑っていなかった。

 ――好きでいます。

 どうして。

 そんな言葉が、こんなにも引っかかるのだろう。

 亜美が誰を好きになろうと、丈には関係がない。

 自分は塾の講師で。

 亜美は生徒だ。

 相談を聞いてきただけ。

 少し、人より近いだけ。

 そう思っていた。

 それなのに。

 幸也がピアノを弾くことを亜美だけが知っていると聞いたとき。

 面白くなかった。

 二人だけの秘密があると知ったとき。

 もっと面白くなかった。

 そして今。

 亜美自身の口から、幸也が好きだと聞いて。

 はっきりした。

 丈は、嫌だった。

 理由を考えるより先に。

 ただ、嫌だった。

 亜美が自分以外の男を知りたがることも。

 会いたがることも。

 その男のために、同じ大学へ行きたいと思い始めていることも。

 全部。

 丈は帰り支度をする亜美を見つめる。

「じゃあ先生、またね」

「うん。気をつけて帰りな」

「はい」

 いつものように亜美は帰っていく。

 扉が閉まる。

 その姿が見えなくなってから。

 丈は一人、小さく息を吐いた。

 幸也のことを「遊び人」だと教えた。

 嘘ではない。

 事実だ。

 亜美が傷つかないためだと言えば、きっと間違いでもない。

 けれど。

 それだけだったのか。

 丈自身にも、もう分からなかった。

 ただ一つ分かっているのは。

 亜美はこれからも、自分に幸也の話をする。

 嬉しかったことも。

 不安になったことも。

 分からないことも。

 全部、持ってくる。

 そして亜美は、自分の言葉を信じる。

 丈が言えば、安心する。

 丈が危ないと言えば、不安になる。

 それほどまでに。

 亜美は、自分を信頼している。

 その事実を。

 丈は初めて、少しだけ怖いと思った。

 同時に。

 手放したくないとも、思った。

 亜美はまだ知らない。

 自分が好きになった人のことを、別の男に教えてもらおうとしている、その危うさを。

 そして丈もまだ知らなかった。

 亜美から向けられる無防備な信頼が。

 いつか自分の中で――

 ただの「大切」では済まなくなっていくことを。