忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

 それからも。

 亜美は塾へ来るたび、大学見学の日の話をした。

「先生」

「何?」

「この前の先輩なんですけど」

「またその人?」

「またって何ですか」

「最近その話多いから」

「そう?」

「うん」

 亜美には本当に自覚がないらしい。

「そんなに話してます?」

「してるよ」

「……何回くらい?」

「数えようか?」

「いいです」

「じゃあ聞かないで」

 亜美は少し不満そうに口を尖らせる。

 それから、またすぐに話し始める。

「演奏がね」

「うん」

「本当にすごかったんです」

「それはもう何回も聞いた」

「先生は聴いてないから分からないでしょ」

「まあね」

「だから伝えたいの」

「俺に?」

「うん」

 あまりにも自然に言われて、丈は一瞬言葉を失った。

「……なんで?」

「先生に話したいから」

「そっか」

「変?」

「いや」

 丈は笑った。

「好きなだけ話せば?」

「じゃあ話します」

「遠慮ないな」

 亜美は楽しそうだった。

 そして丈も。

 亜美が自分に何かを話してくれること自体は、嫌いではなかった。

 むしろ好きだった。

 学校では友達がいないと言っていた亜美が。

 家族にも言わないようなことを、自分には話す。

 何かあるたびに、自分を頼る。

 それがいつからか当たり前になっていた。

 だからこそ。

 最近の話題が、一人の男ばかりになっていることが気になった。

「その人、どんな人なの?」

「え?」

「演奏以外」

「どんな……」

 亜美は考える。

 赤みのあるブラウンの髪。

 少しラフな格好。

 笑ったときの、年上らしい余裕。

『……俺?』

 自分が「好きです」と言ったときの顔まで思い出してしまい、少しだけ頬が熱くなる。

「……かっこいい」

「へえ」

「あと、ちょっと変」

「亜美に言われたくないと思うよ」

「なんでですか」

「自覚ないの?」

「ないです」

「だろうね」

「先生」

「ごめんごめん」

 丈は笑った。

「名前は?」

「名前?」

「その先輩」

 亜美はほんの少しだけ照れたように俯いた。

「……幸也先輩」

 丈の笑顔が止まった。

 ほんの一瞬だった。

「幸也?」

「知ってるんですか?」

「名字は?」

 亜美が答える。

 間違いない。

 同じ大学。

 同じ学年。

 そして――同じ研究室にいる男だった。

「知ってるよ」

「本当?」

 亜美の顔がぱっと明るくなる。

 その変化を、丈は見逃さなかった。

「研究室、一緒だから」

「えっ」

 亜美が身を乗り出す。

「先生、幸也先輩と仲良いんですか?」

 聞いてから、亜美ははっとした。

 そういえば今、先生はさらっとすごいことを言わなかっただろうか。

 研究室が一緒。

 ということは――。

 先生も、誠星大学の学生なんだ。

 今まで何度も話してきたのに、知らなかった。

 本当なら、そっちを先に聞くところだったのかもしれない。

 何学部なの、とか。

 何年生なの、とか。

 どうして今まで教えてくれなかったの、とか。

 聞きたいことはいくらでもあったはずなのに。

 口から出てきたのは、幸也先輩のことだった。

 自分でも呆れるくらい。

 今の亜美の頭の中は、あの日出会った人のことでいっぱいだった。

「まあ……普通かな」

「じゃあ」

 亜美の声がさらに弾む。

「幸也先輩がピアノ弾くのも知ってた?」

「……ピアノ?」

 丈は思わず聞き返した。

「はい」

「幸也が?」

「すごく上手なんです」

「……知らなかった」

 今度は亜美が驚く。

「先生も?」

「うん。初めて聞いた」

 同じ研究室にいる。

 普段から顔も合わせる。

 それでも、幸也がピアノを弾くことなんて聞いたことがなかった。

「そっか……」

 亜美が小さく呟く。

 そして。

 少し嬉しそうに笑った。

「じゃあ、本当に秘密なんだ」

「秘密?」

「あ」

 亜美が口を押さえる。

「それ以上は言えません」

「俺にはなんでも話すんじゃなかった?」

「これはダメ」

「先生は別って言ってなかった?」

「でも、約束したから」

「誰と?」

「幸也先輩と」

 その名前を口にする亜美は、やっぱり少し嬉しそうだった。

「……そっか」

 丈はそれ以上聞かなかった。

 聞かなかったけれど。

 胸の中に、今までとは違うものが生まれていた。

 知らなかった。

 幸也がピアノを弾くことを。

 亜美と幸也の間に、自分には教えてもらえない秘密があることを。

 丈はずっと。

 亜美のことなら、かなり知っていると思っていた。

 学校に友達がいないこと。

 家では兄とよく話すこと。

 嫌なことがあっても、すぐには人に言えないこと。

 大人びて見えるくせに、変なところで抜けていること。

 寂しいときほど平気そうな顔をすること。

 亜美自身が気づいていない癖まで知っている。

 なのに。

 自分の知らないところで。

 亜美の中に、誰かとの秘密が一つ増えていた。

 それが、また面白くなかった。