大学見学へ行ってから、数日が経った。
亜美はいつもより少し早く塾へ来ていた。
夏期講習が始まった塾内は、普段より人が多い。
廊下を行き交う生徒の声。
講師に質問する声。
自習室から聞こえてくる、紙をめくる音。
亜美はいつもの席に鞄を置き、参考書を開いた。
シャープペンシルを持つ。
問題文を読む。
もう一度読む。
「…………」
何も頭に入ってこない。
気づけば、同じ一行を何度も目で追っていた。
最近ずっと、こんな調子だった。
少しでも気を抜くと、思い出してしまう。
黒いキーボード。
鍵盤の上を動く、長い指。
繊細で、時々荒々しい音。
『今日から君だけが知ってる秘密な』
そして最後に。
『じゃ、またな。亜美ちゃん』
「……」
亜美はシャープペンシルを置いた。
両手で頬を押さえる。
熱い気がする。
けれど、どうして熱くなるのかは分からない。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
何度も呼ばれてきた自分の名前なのに。
あの声で呼ばれたときのことだけは、何度も思い出してしまう。
――なんなんだろう。
大学が気に入ったから?
キーボードの音色が綺麗だったから?
秘密を教えてもらったから?
それとも。
「亜美」
「……っ」
突然名前を呼ばれ、亜美の肩が跳ねた。
「なに、その反応」
顔を上げる。
丈が立っていた。
「先生」
「うん」
「びっくりした」
「こっちがびっくりしたよ」
丈が机の上を見る。
「何してるの?」
「勉強」
「してないだろ」
「してました」
「さっきから同じところ見てるけど」
「……見てたんですか?」
「通るたびに目に入るから」
丈が呆れたように笑う。
「また考え事?」
その言葉に、亜美は少しだけ黙った。
「……はい」
「勉強以外の?」
「はい」
「堂々と言うなあ」
「嘘ついても先生にばれるから」
「それはそう」
「認めるんだ」
「亜美、分かりやすいから」
「分かりにくいって言われます」
「他の人にはね」
何気なく返された言葉に、亜美は丈を見る。
「先生には分かるの?」
「まあ、それなりに」
「なんで?」
「長いこと話してるからじゃない?」
「……そっか」
それなら納得できる。
丈とは、いろいろな話をしてきた。
学校のこと。
家のこと。
友達のこと。
勉強のこと。
今日食べたものみたいな、どうでもいいことまで。
自分でも忘れていることを、丈が覚えていることもある。
亜美にとって丈と話すことは、いつの間にか当たり前になっていた。
「で?」
「え?」
「今日は何考えてたの?」
「……言わなきゃダメですか?」
「別に」
丈はあっさり答えた。
「言いたくないなら聞かないよ」
「…………」
そう言われると、逆に話したくなる。
亜美はシャープペンシルを指先で転がした。
「先生」
「ん?」
「この前、大学見学に行ったんです」
「へえ」
「お兄ちゃんの大学」
「誠星大だっけ?」
亜美が顔を上げる。
「覚えてたんですか?」
「前に聞いたから」
「私、言ったこと覚えてない」
「亜美は自分が喋ったこと忘れすぎ」
「先生が覚えすぎなんです」
「そう?」
「そうです」
そう言いながら、少しだけ嬉しかった。
自分では大したことだと思っていなかった話まで、丈は覚えている。
「で、どうだった?」
「広かったです」
「大学見学の感想がそれ?」
「お兄ちゃんにも同じこと言われました」
「だろうね」
「あと、自由でした」
「自由?」
「高校と全然違って」
亜美は、あの日見た景色を思い出す。
制服ではない人たち。
好きな服を着て、友達と笑いながら歩く大学生。
誰も自分を知らない場所。
「みんな好きな服着て、好きなところ歩いてて」
「うん」
「誰も私のこと知らなくて」
そこで言葉が止まった。
丈は何も言わない。
ただ続きを待っている。
「……ちょっと楽でした」
「そっか」
それだけだった。
どうして、と聞かない。
学校で何かあったの、とも聞かない。
学校には友達がいないことを、丈は知っている。
それでも無理に聞き出そうとはしない。
亜美が話したければ聞く。
話したくなければ、待ってくれる。
その距離が、亜美には心地よかった。
「それでね」
「うん」
亜美の声が、ほんの少し弾んだ。
「軽音サークルにも行ったんです」
「兄貴の?」
「はい」
「へえ。どうだった?」
「お兄ちゃん、途中で大学の先生に呼ばれちゃって」
「また頼まれ事?」
「そう」
「亜美の話聞いてると、ほんと断れない人なんだな」
「そうなんです。だから私、一人で部室まで行ったの」
「迷わなかった?」
「……ちょっとだけ」
「やっぱり」
「ちゃんと着きました」
「偉い偉い」
「子供扱いしないでください」
丈が笑う。
亜美も少し笑った。
「それで……」
言葉にしようとすると、不思議と胸が落ち着かなくなる。
「部室に、先輩がいたんです」
「先輩?」
「はい」
「男?」
「男の人」
丈は何気なく聞いただけだった。
けれど。
亜美の表情が少しだけ変わったことに気づいた。
いつもより柔らかい。
「何してたの?」
「キーボード弾いてました」
「へえ」
「すごく綺麗だった」
思い出しただけで、あの音が耳の奥に蘇る。
亜美の口元が自然に緩んだ。
「最初はすごく繊細なのに、途中からちょっと荒々しくなって。それなのに、またすぐ優しくなって……」
「ずいぶんちゃんと聴いたんだね」
「だって、すごかったから」
「亜美、ピアノ好きだもんな」
「うん」
丈は何気なく相槌を打ちながら、亜美を見ていた。
こんな顔をするんだ。
そう思った。
亜美はもともと表情が大きく変わる方ではない。
笑うことはある。
拗ねることもある。
けれど今の亜美は、そのどれとも少し違った。
思い出しているだけで嬉しそうだった。
「それでね」
「うん」
「クラシックも弾いてくれたんです」
「クラシック?」
「はい」
「キーボードの人が?」
「そう」
丈は少しだけ意外に思った。
「へえ」
「すごく上手だった」
「そんなに?」
「うん。もっと聴きたいって思った」
亜美は何度も話したくなる。
あの音のことを。
幸也のことを。
誰かに聞いてほしかった。
特に、丈には。
「それで――」
言いかけて。
亜美は止まった。
『今日から君だけが知ってる秘密な』
あの言葉を思い出す。
「どうした?」
「……言えないこともあります」
「急に?」
「秘密だから」
「その先輩との?」
「……はい」
丈の目が、ほんのわずかに細くなった。
けれど声はいつもと変わらない。
「じゃあ言わない方がいいよ」
「でも」
「ん?」
「先生になら、言ってもいい気がする」
「ダメだろ」
「先生、誰にも言わないでしょ?」
「言わないけど、そういう問題じゃない」
「……そっか」
「その人と約束したなら守らないと」
「うん」
亜美は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、言わない」
「それがいい」
「でも先生は別なのに」
「何が?」
「先生には、なんでも話してるから」
何気ない一言だった。
丈の表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……なんでも?」
「うん」
「そんなに?」
「学校のことも、お兄ちゃんのことも、進路のことも」
亜美は指を折る。
「くだらないこともいっぱい」
「それは知ってる」
「だから先生に言うのって、誰かに言うのと違う気がする」
「すごい理屈だね」
「ダメ?」
「ダメ」
「先生なのに?」
「先生だから何でも話していいわけじゃないよ」
「……じゃあ秘密にする」
「そうしな」
丈は笑った。
亜美も納得したように頷く。
それでも丈の胸には、妙な引っかかりが残った。
自分にはなんでも話すと言った亜美が。
話さなかった。
誰かとの約束を守るために。
それは当然のことだった。
むしろ、丈自身がそうするように言った。
なのに。
なぜか少しだけ、面白くなかった。
亜美はいつもより少し早く塾へ来ていた。
夏期講習が始まった塾内は、普段より人が多い。
廊下を行き交う生徒の声。
講師に質問する声。
自習室から聞こえてくる、紙をめくる音。
亜美はいつもの席に鞄を置き、参考書を開いた。
シャープペンシルを持つ。
問題文を読む。
もう一度読む。
「…………」
何も頭に入ってこない。
気づけば、同じ一行を何度も目で追っていた。
最近ずっと、こんな調子だった。
少しでも気を抜くと、思い出してしまう。
黒いキーボード。
鍵盤の上を動く、長い指。
繊細で、時々荒々しい音。
『今日から君だけが知ってる秘密な』
そして最後に。
『じゃ、またな。亜美ちゃん』
「……」
亜美はシャープペンシルを置いた。
両手で頬を押さえる。
熱い気がする。
けれど、どうして熱くなるのかは分からない。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
何度も呼ばれてきた自分の名前なのに。
あの声で呼ばれたときのことだけは、何度も思い出してしまう。
――なんなんだろう。
大学が気に入ったから?
キーボードの音色が綺麗だったから?
秘密を教えてもらったから?
それとも。
「亜美」
「……っ」
突然名前を呼ばれ、亜美の肩が跳ねた。
「なに、その反応」
顔を上げる。
丈が立っていた。
「先生」
「うん」
「びっくりした」
「こっちがびっくりしたよ」
丈が机の上を見る。
「何してるの?」
「勉強」
「してないだろ」
「してました」
「さっきから同じところ見てるけど」
「……見てたんですか?」
「通るたびに目に入るから」
丈が呆れたように笑う。
「また考え事?」
その言葉に、亜美は少しだけ黙った。
「……はい」
「勉強以外の?」
「はい」
「堂々と言うなあ」
「嘘ついても先生にばれるから」
「それはそう」
「認めるんだ」
「亜美、分かりやすいから」
「分かりにくいって言われます」
「他の人にはね」
何気なく返された言葉に、亜美は丈を見る。
「先生には分かるの?」
「まあ、それなりに」
「なんで?」
「長いこと話してるからじゃない?」
「……そっか」
それなら納得できる。
丈とは、いろいろな話をしてきた。
学校のこと。
家のこと。
友達のこと。
勉強のこと。
今日食べたものみたいな、どうでもいいことまで。
自分でも忘れていることを、丈が覚えていることもある。
亜美にとって丈と話すことは、いつの間にか当たり前になっていた。
「で?」
「え?」
「今日は何考えてたの?」
「……言わなきゃダメですか?」
「別に」
丈はあっさり答えた。
「言いたくないなら聞かないよ」
「…………」
そう言われると、逆に話したくなる。
亜美はシャープペンシルを指先で転がした。
「先生」
「ん?」
「この前、大学見学に行ったんです」
「へえ」
「お兄ちゃんの大学」
「誠星大だっけ?」
亜美が顔を上げる。
「覚えてたんですか?」
「前に聞いたから」
「私、言ったこと覚えてない」
「亜美は自分が喋ったこと忘れすぎ」
「先生が覚えすぎなんです」
「そう?」
「そうです」
そう言いながら、少しだけ嬉しかった。
自分では大したことだと思っていなかった話まで、丈は覚えている。
「で、どうだった?」
「広かったです」
「大学見学の感想がそれ?」
「お兄ちゃんにも同じこと言われました」
「だろうね」
「あと、自由でした」
「自由?」
「高校と全然違って」
亜美は、あの日見た景色を思い出す。
制服ではない人たち。
好きな服を着て、友達と笑いながら歩く大学生。
誰も自分を知らない場所。
「みんな好きな服着て、好きなところ歩いてて」
「うん」
「誰も私のこと知らなくて」
そこで言葉が止まった。
丈は何も言わない。
ただ続きを待っている。
「……ちょっと楽でした」
「そっか」
それだけだった。
どうして、と聞かない。
学校で何かあったの、とも聞かない。
学校には友達がいないことを、丈は知っている。
それでも無理に聞き出そうとはしない。
亜美が話したければ聞く。
話したくなければ、待ってくれる。
その距離が、亜美には心地よかった。
「それでね」
「うん」
亜美の声が、ほんの少し弾んだ。
「軽音サークルにも行ったんです」
「兄貴の?」
「はい」
「へえ。どうだった?」
「お兄ちゃん、途中で大学の先生に呼ばれちゃって」
「また頼まれ事?」
「そう」
「亜美の話聞いてると、ほんと断れない人なんだな」
「そうなんです。だから私、一人で部室まで行ったの」
「迷わなかった?」
「……ちょっとだけ」
「やっぱり」
「ちゃんと着きました」
「偉い偉い」
「子供扱いしないでください」
丈が笑う。
亜美も少し笑った。
「それで……」
言葉にしようとすると、不思議と胸が落ち着かなくなる。
「部室に、先輩がいたんです」
「先輩?」
「はい」
「男?」
「男の人」
丈は何気なく聞いただけだった。
けれど。
亜美の表情が少しだけ変わったことに気づいた。
いつもより柔らかい。
「何してたの?」
「キーボード弾いてました」
「へえ」
「すごく綺麗だった」
思い出しただけで、あの音が耳の奥に蘇る。
亜美の口元が自然に緩んだ。
「最初はすごく繊細なのに、途中からちょっと荒々しくなって。それなのに、またすぐ優しくなって……」
「ずいぶんちゃんと聴いたんだね」
「だって、すごかったから」
「亜美、ピアノ好きだもんな」
「うん」
丈は何気なく相槌を打ちながら、亜美を見ていた。
こんな顔をするんだ。
そう思った。
亜美はもともと表情が大きく変わる方ではない。
笑うことはある。
拗ねることもある。
けれど今の亜美は、そのどれとも少し違った。
思い出しているだけで嬉しそうだった。
「それでね」
「うん」
「クラシックも弾いてくれたんです」
「クラシック?」
「はい」
「キーボードの人が?」
「そう」
丈は少しだけ意外に思った。
「へえ」
「すごく上手だった」
「そんなに?」
「うん。もっと聴きたいって思った」
亜美は何度も話したくなる。
あの音のことを。
幸也のことを。
誰かに聞いてほしかった。
特に、丈には。
「それで――」
言いかけて。
亜美は止まった。
『今日から君だけが知ってる秘密な』
あの言葉を思い出す。
「どうした?」
「……言えないこともあります」
「急に?」
「秘密だから」
「その先輩との?」
「……はい」
丈の目が、ほんのわずかに細くなった。
けれど声はいつもと変わらない。
「じゃあ言わない方がいいよ」
「でも」
「ん?」
「先生になら、言ってもいい気がする」
「ダメだろ」
「先生、誰にも言わないでしょ?」
「言わないけど、そういう問題じゃない」
「……そっか」
「その人と約束したなら守らないと」
「うん」
亜美は少し考えてから頷いた。
「じゃあ、言わない」
「それがいい」
「でも先生は別なのに」
「何が?」
「先生には、なんでも話してるから」
何気ない一言だった。
丈の表情が、ほんの一瞬だけ止まる。
「……なんでも?」
「うん」
「そんなに?」
「学校のことも、お兄ちゃんのことも、進路のことも」
亜美は指を折る。
「くだらないこともいっぱい」
「それは知ってる」
「だから先生に言うのって、誰かに言うのと違う気がする」
「すごい理屈だね」
「ダメ?」
「ダメ」
「先生なのに?」
「先生だから何でも話していいわけじゃないよ」
「……じゃあ秘密にする」
「そうしな」
丈は笑った。
亜美も納得したように頷く。
それでも丈の胸には、妙な引っかかりが残った。
自分にはなんでも話すと言った亜美が。
話さなかった。
誰かとの約束を守るために。
それは当然のことだった。
むしろ、丈自身がそうするように言った。
なのに。
なぜか少しだけ、面白くなかった。


