忘れられないよ君は―初恋だけでは終われない―

 その日の夜。

 亜美はベッドの上でイヤホンを耳につけた。

 いつものようにピアノ曲を流す。

 目を閉じる。

 いつもなら、それだけで少し落ち着く。

 学校のことも。

 進路のことも。

 考えたくないことが少し遠くなる。

 けれど今日は違った。

 イヤホンから流れているのは、いつも聴いているピアノ。

 なのに頭の中で聞こえてくるのは、別の音だった。

 繊細で。

 時々、荒々しくて。

 少しだけ寂しい。

 鍵盤の上を動く指が浮かぶ。

 柔らかく笑った顔が浮かぶ。

『じゃ、またな。亜美ちゃん』

 亜美は目を開けた。

 胸がまた、少しだけ速くなる。

「……なんで」

 誰に聞くでもなく呟く。

 分からない。

 今日会ったばかりなのに。

 ほとんど話したこともないのに。

 それなのに、思い出す。

 ――幸也先輩。

 心の中で名前を呼ぶ。

 初めて聞いたはずの名前なのに、もう忘れそうになかった。

 亜美はもう一度目を閉じる。

「……また、聴きたいな」

 誰にも聞こえない声で、小さく呟いた。

 恋なんて、よく知らない。

 誰かを好きになるということも、まだ分からない。

 だから亜美は、この胸の奥に生まれたものに名前をつけることができなかった。

 ただ――。

 もっと聴きたい。

 もう一度会いたい。

 もっと知りたい。

 その小さな気持ちだけが、眠りにつくまで何度も胸の中を巡っていた。

 この日。

 それまでぼんやりとしか見えていなかった亜美の未来に、初めて一つの場所が浮かび上がった。

 誠星大学。

 そして、その場所を思い浮かべるたび。

 亜美の中には、決まって一人の先輩と、あのキーボードの音が蘇るようになった。