「亜美」
しばらくして直充が部室へ入ってきた。
「悪い、遅くなった」
「お兄ちゃん」
兄の顔を見た瞬間、少しだけ現実へ戻ってきたような感覚がした。
「ちゃんと着けたんだな」
「着けたよ」
「迷わなかった?」
「……ちょっとだけ」
「迷ったのかよ」
「でも着いたからいいでしょ」
直充が呆れた顔をする。
その後ろから声が飛ぶ。
「直充」
「あ、幸也先輩。いたんですか」
「いたよ」
亜美の視線が動く。
――幸也。
初めて知った名前だった。
頭の中で、そっと繰り返す。
幸也。
音と名前が結びつく。
それだけで、この人がさっきより少し近くなったような気がした。
「妹と話してた」
「亜美が何か失礼なことしませんでした?」
「してないって。おもしろかったけど」
「何したんだよ」
「何もしてない」
亜美が否定すると、幸也が笑う。
「そういうことにしとく」
「本当に何もしてないです」
「分かった分かった」
「信じてない」
「信じてるって」
絶対に信じていない。
亜美は少しだけむっとする。
その顔を見て、幸也はまた笑った。
その笑顔を見ると、不思議と怒る気がなくなった。
「ほら、亜美。次行くぞ」
「うん」
直充に呼ばれ、亜美は部室の出口へ向かう。
一歩。
二歩。
扉のところまで来たところで、なぜか足が止まった。
まだ、ここにいたい。
一瞬だけ、そんな気持ちが浮かんだ。
自分でも驚く。
振り返る。
幸也はもうこちらを見ていなかった。
鍵盤に指を置いている。
また、あの音が始まりそうだった。
亜美は少し迷ってから、
「幸也先輩」
呼んだ。
初めて、その名前を口にした。
それだけで少し緊張した。
幸也が顔を上げる。
「ん?」
「秘密、言いませんから」
一瞬きょとんとしてから、幸也が笑った。
「分かってるって」
「……本当に?」
「信用するって言っただろ」
「はい」
「じゃ、またな。亜美ちゃん」
一瞬。
亜美は動けなかった。
――亜美ちゃん。
ただ名前を呼ばれただけ。
それなのに。
胸の奥が、また小さく跳ねた。
「……はい」
それだけ返して、今度こそ部室を出た。
廊下へ出ても、耳の奥には幸也の声が残っていた。
亜美ちゃん。
何度も呼ばれてきた自分の名前なのに。
幸也に呼ばれただけで、少し違うものになったような気がした。
嬉しいような。
恥ずかしいような。
もう一度振り返りたいような。
名前の分からない感情だった。
しばらくして直充が部室へ入ってきた。
「悪い、遅くなった」
「お兄ちゃん」
兄の顔を見た瞬間、少しだけ現実へ戻ってきたような感覚がした。
「ちゃんと着けたんだな」
「着けたよ」
「迷わなかった?」
「……ちょっとだけ」
「迷ったのかよ」
「でも着いたからいいでしょ」
直充が呆れた顔をする。
その後ろから声が飛ぶ。
「直充」
「あ、幸也先輩。いたんですか」
「いたよ」
亜美の視線が動く。
――幸也。
初めて知った名前だった。
頭の中で、そっと繰り返す。
幸也。
音と名前が結びつく。
それだけで、この人がさっきより少し近くなったような気がした。
「妹と話してた」
「亜美が何か失礼なことしませんでした?」
「してないって。おもしろかったけど」
「何したんだよ」
「何もしてない」
亜美が否定すると、幸也が笑う。
「そういうことにしとく」
「本当に何もしてないです」
「分かった分かった」
「信じてない」
「信じてるって」
絶対に信じていない。
亜美は少しだけむっとする。
その顔を見て、幸也はまた笑った。
その笑顔を見ると、不思議と怒る気がなくなった。
「ほら、亜美。次行くぞ」
「うん」
直充に呼ばれ、亜美は部室の出口へ向かう。
一歩。
二歩。
扉のところまで来たところで、なぜか足が止まった。
まだ、ここにいたい。
一瞬だけ、そんな気持ちが浮かんだ。
自分でも驚く。
振り返る。
幸也はもうこちらを見ていなかった。
鍵盤に指を置いている。
また、あの音が始まりそうだった。
亜美は少し迷ってから、
「幸也先輩」
呼んだ。
初めて、その名前を口にした。
それだけで少し緊張した。
幸也が顔を上げる。
「ん?」
「秘密、言いませんから」
一瞬きょとんとしてから、幸也が笑った。
「分かってるって」
「……本当に?」
「信用するって言っただろ」
「はい」
「じゃ、またな。亜美ちゃん」
一瞬。
亜美は動けなかった。
――亜美ちゃん。
ただ名前を呼ばれただけ。
それなのに。
胸の奥が、また小さく跳ねた。
「……はい」
それだけ返して、今度こそ部室を出た。
廊下へ出ても、耳の奥には幸也の声が残っていた。
亜美ちゃん。
何度も呼ばれてきた自分の名前なのに。
幸也に呼ばれただけで、少し違うものになったような気がした。
嬉しいような。
恥ずかしいような。
もう一度振り返りたいような。
名前の分からない感情だった。


