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 五十嵐は、院長室にある自分専用のパソコンを開き、赤いフラグを立てておいた歯科学会からのメールを、もう一度読み返していた。

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 中部歯科学会 美歯会
 美歯会定例総会・学術大会のお知らせ
 
 会員各位
 
 寒さの中に春の気配を感じる頃となりました。
 会員の皆様へ、美歯会定例総会・学術大会のお知らせをご案内いたします。
 (中略)
 又、渡修一(わたるしゅういち)先生が、新しく会長に就任されましたことを踏まえ、総会・学術大会後、同会場にて、会長就任パーティーを予定しております。ご参加される会員の皆様の中に、ご宿泊が必要な方は、こちらでご手配いたしますので、ご参加人数とその方のお名前をご返信くださいませ。
是非、お誘い合わせの上、皆様のご来場をお待ちいたしております。よろしくお願いいたします。敬具
 
 日程 4月7日(水)
 会場 静岡 ロイヤルパッシュホテル
 時間 14時〜16時 総会・学術大会
    17時〜19時 会長就任パーティー
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 (どうすっかな…。渡先生の就任パーティーか…)

 五十嵐は、一人で行くか、誰かを連れて行くか、頭の後ろで手を組みながら悩んでいた。

 「お疲れさまで〜す、五十嵐先生。今いいっすか〜?おっ?どうしたんすか〜、頭なんか抱えちゃって〜」

 医師室から出てきた伊東が、五十嵐に渡す最新の学術資料を持って、院長室へ入ってきた。

 「なぁ伊東先生。先日、美歯会から学会の案内が届いたんだが…今回は、世話になった渡先生の就任パーティーもあんだよ…。俺、こういうの一人じゃ保たねーから、どうしようかと思って…」

 五十嵐は、頭の後ろで組んでいた手をほどき、L字型に開いた指で顎を支え、頬杖をついた。

 「ははは。五十嵐先生、そういうの苦手っすもんね〜。クリニックから誰か一人、連れて行ったらいいんじゃないっすか〜?まぁ、五十嵐先生が、他に連れて行きたい人が居るなら別っすけど…」

 伊東は、抱えていた学術資料をそっと五十嵐の机の上に起き、左頬を人差し指で掻きながら、五十嵐の問いに続ける。

 「そうっすね〜。五十嵐先生が不在の時は、僕がここを見るんで、もし、クリニックから一人出すんだったら、衛生士の南さんは置いといてもらいたいなぁ…。まっ、色々考えると、必然的に脇田さん?じゃないっすか〜っ?」

 伊東は、五十嵐の俯いている顔を見ながら、少し揶揄うように語尾を上げた。
 長い間、女に対して冷酷な五十嵐を見てきた伊東は、五十嵐の恋慕のようなもの察していた。決して表に出さないが、梛七に対して五十嵐は、何か特別な感情を持っているに違いないと、伊東は感じていた。いつもこうして、さり気なく探りを入れてみるのだが、特に深い意味はないだの、たまたまそうなっただけだ、などと上手くはぐらかしてくる。
 
 「まぁ、そうなるよなぁ…」

 伊東の考えも訳知らずな五十嵐は、天井を仰ぎながら納得し、伊東から預かった学術資料に目をやった。


 「脇田、ちょっといいか」

 「はっ…はい!」

 午前の診察が全て終わり、スタッフたちが、お昼休憩に入ろうとしていた頃、一枚の印刷物を持った五十嵐が、消毒室いた梛七に声をかけた。
 そのまま院長室に入るよう梛七を誘導し、五十嵐と梛七は、向かい合ったままソファーに腰を下ろした。
 
 「これなんだが…」

 「あっ、はい」

 (なんだろう…)

 梛七は、五十嵐から一枚の印刷物を受け取った。冒頭には、中部歯科学会のお知らせという文字が書かれてある。案内の内容をざっと読み進めていく。すると、いきなり『パーティー』というカタカナの横文字が、梛七の目に飛び込んできた。

 「学会の後に、パーティー…ですか…」

 梛七は、舞踏会のようなパーティーを思い浮かべて、見開いた目を五十嵐に向けた。

 「あぁ。まぁ、そんな堅苦しいパーティーじゃねーと思うけど…。それもそうだが、今回の学会の内容は、新薬についてだ。衛生士としての意見も聞きたい。もし脇田が嫌じゃなければ、一緒に来てくれないか?」

 五十嵐の思いがけない突然の誘いに、梛七はしばらく身動きが取れず、自然と顔を赤らめていた。

 「先生とご一緒するの…、わ、私でいいんですか…」

 「何か問題でもあるか?」

 梛七は「いえ…」と静かに漏らし、首を横に振る。早くなる鼓動を抑えながら、分かりました、と言い、五十嵐の誘いを承諾した。

 「話は以上だ。また、詳細はラインする」

 五十嵐は、座っていたソファーから立ち上がり、安堵感を漂わせながら、窓の外を眺めていた。
 

 ◇◇◇
 

 無事に午後の診察も終わり、クリニックを出た後、南ユリと梛七は近くのスペインバルへ向かっていた。

 「今日はわっきーと色々、話したいことがいっぱいあるの〜ぉ」

 南は、梛七との久しぶりの食事に、普段よりも倍ぐらいテンションが高かった。梛七も久しぶりの外食で、今晩を楽しみにしていた。
 
 『乾杯ぁ〜い!』

 梛七と南は、生ビールをそれぞれ注文し、ぐいっ、と喉の奥へと流し込んだ。仕事で駆使した身体に、染み渡っていくこの瞬間が堪らない。メニュー表を見ながら一息つき、それぞれに食べたい物を注文した。
 
 「ねぇ、今日のお昼、五十嵐先生と何話してたのぉ?」

 唐突に、五十嵐というワードが出てきて、梛七は咽せそうになったビールのグラスを、ゆっくり置いた。

 「んんっ…んとね、再来週、静岡で美歯会の学会があって…それに一緒に来てくれないかっていう話だった。学会の後には、会長就任パーティーもあるんだって…」

 「えーーーーーっ!もぉ〜わっきーが可愛いからって五十嵐先生ぇ〜。やっぱり、五十嵐先生はわっきーのこと…」

 「…っ、そんな、ないないない!」

 梛七は、少しだけ頬を赤らめ、ビールの入った濡れたグラスに手を伸ばし、話を続ける。

 「五十嵐先生が、この事を伊東先生に相談したら、みなみんを置いといて欲しいっていう要望があったんだって。だから私と先生が一緒に行くことになったってだけで、偶然、偶然!」

 注文したアヒージョが届く。梛七は、横に設置してあった取り皿を二枚取って、それぞれの分を取り分けた。

 「え〜っ、やだぁ〜っ。伊東先生が私を指名してくれたのぉ〜。嬉すぎるんだけどぉ〜。やばっ」

 南は照れくさそうに、両手で顔を覆った。すぐに顔を解放し、梛七が取り分けていたアヒージョを、嬉しそうに口に含んだ。

 「でもさぁ〜、やっぱり、五十嵐先生はわっきーだけに特別だよ。私たちとは違う。それが嫌だって話じゃなくて、そういう関係性が素敵だなって話ね。わっきーが休みの日は、五十嵐先生つまんなそーだし、なんか淡々としてるっていうか…」

 南が好きそうな、カラフルで可愛いピンチョスが届く。可愛い〜SNSに載せるッ!、と言って加工用アプリで写真を撮りながら南は続けた。

 「そんなわっきーはさぁ〜、五十嵐先生のこと、どう思ってんのぉ?」

 「…ど、どうって…言われても…」

 梛七は、酷く酔ってしまったのではないかというぐらい、顔が真っ赤になっていた。南に話してしまってもいいのだろうかと一瞬悩んだが、もはや尋問のように、問い詰めてくる南の目を、欺くことはできなかった。

 「…特別な感情は…、あるかもしれない…」

 梛七は、南の目をそっと見ながら辿々しく答える。

 「やっぱりなぁ〜。だって、二人の阿吽の呼吸っていうやつ?凄いんだも〜ん。そういう気持ちがないとならないって〜。いつからなの?最近?」

 南は、ニヤニヤしながらも真面目に聞こうとしていた。
 二杯目に頼んだサングリアが届き、美しく沈むフルーツたちをかき混ぜながら、梛七は南の問いに答えた。

 「…五年ぐらい…、抱えてるかな…、この気持ち。五十嵐先生に沢山の時間を割いてもらったから…仕事はできている方かもしれないけど…。この気持ちを伝えてしまったら、今まで積み重ねてきたものが、一気に崩れてしまうんじゃないかと思って…怖くて言い出せないの…」

 梛七は、少し寂しそうな顔をして、照明に照らされた艶やかなサングリアの表面を眺めた。

 「そっかぁ…。そうだよね。壊れてしまうと思うと、怖いよね…。でもね、わっきー。時間は有限だよ。もし、五十嵐先生が他の誰かと結婚したりでもしたら、それこそ何もかも失ってしまうんじゃない?どこかのタイミングで、先生にこの気持ちを伝えるべきだと思う!」

 テーブルに置いてあった南のiPhone画面が光る。南の母親からの着信だった。うわぁ。ちょっと、ごめんっ、と言いながら南は、恐る恐る応答マークをスライドした。

 「『え〜っ!、分かったよぉ…、すぐ帰ればいいんでしょぉ〜。はいはいはーい』わっきー、ごめん。ママが体調悪いって言うから帰らなきゃ。せっかく話してくれたのにごめんね。また続き、聞かせてくれるぅ?。とりあえず、静岡の学会、楽しんできてぇ〜」

 何度もごめん、と言いながら、折半した金額を梛七に渡した南は、店の出入り口の前でもう一度、手を振った。梛七は、南の姿が消えるまで手を振り続け、窓に映る自分の姿をぼんやりと眺めた。

 (時間は有限…か…)

 五十嵐の姿が目に浮かぶ。

 (先生が結婚でもしたら…私はどうなっちゃうんだろ…)

 考えただけで胸が苦しくなった…。
 
 最後に頼んでいたクレマ•カタラーナが届く。

 「美味しい…」

 表面のカリカリから溢れ出すクレマ・カタラーナの甘さが、沈みかけた梛七の心をやんわりと溶かしていった。
 

 ◇◇◇
 

 静岡の学会が来週に迫った水曜定休の朝。目が覚めた梛七は、時間を確認しようとiPhoneの画面をタップした。
 日付が変わった0時過ぎに、五十嵐から届いたラインが画面に表示された。梛七は、慌てて飛び起き、五十嵐が設定している、黒い無地のアイコンから表示された文面を確認した。
 
 五十嵐━︎(お疲れさま。夜遅くにすまない。来週に行く学会の詳細だ。宿泊希望にしておいたから、一泊する荷物を用意しといてほしい。後は、就任パーティーはドレスコードで。あまり露出しないもので頼む。
 当日は、朝の9時頃、俺が車で脇田の家まで迎えに行く。
 伝えておくことはそれぐらいだな。また何か気になることがあったらラインくれ。よろしく)既読
 
 (遂に…来週だ…どうしよう。緊張しちゃう…。いくら学会とはいえ、先生と二人で遠出だなんて…)

 梛七は、恥ずかしい気持ちと、嬉しい気持ちが入り混じり、掛け布団に包まったまま五十嵐に返信した。
 
 梛七はクローゼットを開け、当日に持っていくお気に入りの、黒のロングフレアワンピースを眺めた。これに合うようにと買った、エナメル素材で、ヒールの高いベージュの靴に足を入れ、鏡の前で心を躍らせた。
 まだ気が早いと思ったが、キャリーケースを引っ張り出し、少しずつ荷物の準備を始めていった。
 

 ◇◇◇
 

 4月7日(水) 学会当日。
 朝の8時半頃、五十嵐から電話が鳴った。
 あまりの緊張で、6時から準備を始めていた梛七は、もういつでも出られるよう待機していた。

 「おはよう、起きてるか?」

 「おはようございます、先生。起きてますよ」

 「今から、リリーのパン屋へ行って、サンドウィッチ買ってからそっち向かうな。お前、なんかいる?」

 電話越しから聞こえる五十嵐の声は妙に優しくて、梛七は一瞬、付き合っている彼女になった気分を味わった。
 同じものを買ってきてもらうよう頼み、iPhoneの画面を何度もタップしながら、五十嵐が到着するのを待った。梛七はもう一度、玄関にある鏡を見て、ふんわりと巻き上げたロングヘアと、アイメイクが崩れていないか念入りに確認した。
 
 (ブブッ)

 五十嵐━︎(着いた)既読
 梛七━︎(今行きます!)既読
 
 梛七は、キャリーケースを引きながら、客用駐車場に停まっている五十嵐の車へと向かった。
 到着した五十嵐は、こちらに向かってくる梛七を見て、エンジンをつけたまま車の外に出た。

 「お待たせ。キャリーケース、後ろに積むぞ」

 「はっ、はい。おねがいしま…す」

 キャリーケースを引いていた梛七の手が、五十嵐の手と一瞬、重なる…。しかし、五十嵐は全く気にも留めず、車のトランクに梛七のキャリーケースを乗せた。
 
 五十嵐は、黒のカシミヤのゆったりとしたスムースニットに、黒のチノパンを合わせ、その上からグレーのベーシックな薄手のチェスターコートを羽織り、厚みのある黒い革素材のローファーを履いていた。
 洗練された着こなしの五十嵐に、梛七は思わず見惚れてしまう…。

 「おい、何してる。早く行くぞ」

 「はっ、はい!」

 梛七は、慌てて助手席に乗り込み、よろしくお願いします…、と言いながら、着ていた黒のチェスターコートを脱ぎ、シートベルトを着用した。
 
 五十嵐と梛七はこうして無事に合流し、今から片道2時間半ほどかかる静岡へと向かったのだった。