あの事故の日、誰と会ってどんな話をして、どんなマッサージをしたのかも思い出せない状態で帰りのバスに乗り、バスターミナルにまで戻ってきた。
そして冴えない顔でパン屋さん パピーの中に入っていった。 「いらっしゃいませ‼」
ちょっと鼻に掛かった女の子の声がぼくを出迎えてくれた。 それが文江ちゃんだった。
「今日からバイトで入ったんです。 よろしくお願いします。」 ぼくはその声に何かを感じた。
そして1999年3月までその子はその店でぼくを迎えてくれることになる。 不思議だったのは一緒に働いていたお姉さんの行動だった。
文江ちゃんがぼくに慣れてきた頃、そのお姉さんがよく店を留守にするようになったんだ。 「ちょっと用事が有るから出掛けてくるね。」
しかも、決まってぼくが店に来ると必ずお姉さんが店を出て行く。 文江ちゃんも不思議そうな顔で見送るんだよね。
「もしかして恋人だって思ってるんじゃないかなあ?」 「そうなんですかねえ?」
話しながらぼくらはいつも首を傾げていた。 確かに仲は良かったけど。
B‐Sがベストアルバムを出した時には付録の写真集をあげたりもしたっけなあ。
買い物を済ませて精算した後、「これ知ってる?」ってぼくは徐に写真集を取り出す。 「それって何ですか? え? B‐Sじゃないですか。 どうしたんですか?」
「こないだのベストアルバムの付録だよ。」 「cdはお兄ちゃんに借りたから知ってるけどこんなのが付いてたんですねえ?」
驚く文江も可愛いなと思った。 そんな文江が卒業した時、、、。
「今日でバイト終わりなんです。 今までありがとうございました。」
そう言ってくる文江にぼくは寂しさを感じていた。 すると、、、。
「確か、リンゴヨーグルトが好きでしたよね? こんなことしか出来ないけど受け取ってください。」
そう言われた時、ぼくが彼女に恋をしていることに気付かされたんだ。 でもふと考えた。
ぼくは30歳。 文江はもうすぐ19歳。
母さんと同じような苦しい体験を体験をさせてはいけない。 自分にブレーキを掛けたんだ。
素直に「好きだ。」って言えば良かったのかもしれない。 でもそれをぼくはしなかった。
理由は二つ有る。 それは彼女がjrのバスガイドに採用されたこと。
数日間 家を留守にするような仕事をしていて全盲のぼくの心配までさせるわけにはいかない。
もちろん、その時 文江ちゃんが好きだったかどうかも聞いてはいない。 聞いていたらさらに苦しんだことだろうから。
文江ちゃんがjrバスに就職することを聞いてお祝いに腕時計を贈った。 これが最後でもいいとぼくは思った。
それから一か月ほどして鹿児島局番の電話が携帯に掛かってきた。 ぼくは歯の治療中で出れなかった。
でもその時にあのお姉さんが言っていたことを思い出したんだ。
「文江ちゃん しばらくは鹿児島に引っ越すんだって。」 (もしや?)と思ったけれど折り返しで掛けることはしなかった。
本当に話した蹴れば掛けてくるって思っていたから。
さあさあ楽器屋さんとはさらに仲良くなりましていろんなことを教えてもらってます。 洋楽に本気で興味を持ったのもこの頃。
イーグルス、ディーク゚パープル、ベンチャーズ、エリックプラクトン、サイモンアンドガーファンクル、、、、今まではほとんど聞かなかった洋楽を聞くようになったのはこの頃。
部屋でもレコーディングごっこは続いてます。 ギターを何本も買い込み、マイクスタンドを立てて歌手気取りも。
エフェクターもいろいろと買い集めたなあ。 文江ちゃんが居なくなって趣味が趣味ではなくなってきたような、、、。
そしてさらに衝撃が、、、。 一番仲の良かった主任が辞めたんだ。
この頃、老健は不思議な動きをしていた。 目の前の田んぼを潰して宅老所を作ったんだ。
でも利用者は意外と増やせずに居た。 そこであっちこっちの姉妹園から利用者を引っ張ってきていた。
さらには利用者の請求書に宅老所の利用料を上乗せして請求するようになっていた。 おばあちゃんたちからは疑問の声が上がった。
「不思議なんだよ。 デーサービスしか使って無いのに請求金額が増えてるんだ。」 この声に主任さんも気付いていたのだろう。
嘘は吐けない人だったから悩み抜いて辞職を決断したものと思う。 最後の最後にぼくの所にも挨拶に来た。
それでぼくは記念にカセットテープと本を贈った。 カセットテープは『北九州青年平和音楽祭』の物だ。
本は出版されたばかりの『新人間革命 第1巻』。 せめてもの恩返しのつもりだった。
実は母さんが事故に遭う前の日、北九州青年平和音楽祭に向けてメインキャストになる合唱団が結団式を行ったんです。 ぼくは参加しなかった。
アジア青年平和音楽祭で合唱団として参加させていただいたのだから後輩に譲りたいと思って。 ところがその迷いが魔を付け入らせてしまったんだ。
事故の夜、思い切って合唱団への参加を申し出たんです 改めて。 それから新たな戦いが始まりました。
音楽祭で歌う曲目も決まってきています。 『青年よ 21世紀の公布の山を上れ』 『前身の歌』などなど。
会館でのパート練習もだんだん激しくなってくる。 10月には全体練習も始まっていよいよ特訓に思えてくる。
音楽祭の会場は北九州市立総合体育館。 ある日曜日、中間市のドームで練習していた時のこと、、、。
テノールパートの人たちを見回していると、、、。 あっちこっちからピーピー 音が聞こえる。
そうかと思えば「あいつとどうする?」 「終わったら何処に行く?」なんて話し声が聞こえてくる。
(これはまずいな。) そう思ったぼくは月曜日のパート練習会で思い切ってみんなにぶつけた。
「昨日の練習会に参加しました。 でも周りから携帯の音は聞こえるし話し声は聞こえるし、邪魔でしょうがないんだよな。
歌唱指導をしてくれている先生にも申し訳ないし迷惑だからやめないか?」 その声に反論は無かった。
その一週間後、中間市のドームでの練習会は雰囲気が違って見えた。
「お待たせしました。 テノールパートの皆さん やりましょうか。」 歌唱指導の沢田さんは前回の様子をしっかりと見ていてぼくらを最後に回したのだ。
他のパートの人たちは思わず笑ったがぼくらが歌い始めると静まり返ってしまった。 沢田先生もその気迫に圧倒されたらしい。
歌い終わったところで沢田先生は言った。 「良く変わったな‼ あれだけ思い切って堂々と間違えられたら何も言えないよ。」
一週間でみんなが変わってしまった。 ぼくはそれを見て驚いた。
音楽祭は11月9日に佐藤全国男子部長を迎えて行われた。 寒くなり始めた冬の入り口だった。
この頃、母さんは少しだけ意識を取り戻して一般病棟に移されていた。 ICUで出頭していた医師も驚いたという。
「こんなことが有るのかね? 脳挫傷でも蘇るのは難しいのに脳挫滅から意識を取り戻すなんて。
この世に奇跡と呼べる物が有るとしたらこれはまさしく奇跡だよ。」 医師はそう言って見送ってくれたというのである。
この一か月、ぼくは全く油断できなかった。 油断すれば母さんを死なせることになるんだから。
「絶対に母さんは死なせない。 死ぬんだったら俺の命を捧げてもいい。」 その思いで走り抜いた一か月だった。
そのために慰安旅行さえキャンセルしたほどだ。 同僚の多くは不思議な顔をした。
主任以外には事故の報告をしていなかったんだから。
母さんはそれから辛いリハビリを耐え抜いたのである。 そして少しの時間でも自力で立っていられるまでに回復した。
体に限界は有っても命に限界は無い。 そのことを教えてくれた母さんだった。
そして冴えない顔でパン屋さん パピーの中に入っていった。 「いらっしゃいませ‼」
ちょっと鼻に掛かった女の子の声がぼくを出迎えてくれた。 それが文江ちゃんだった。
「今日からバイトで入ったんです。 よろしくお願いします。」 ぼくはその声に何かを感じた。
そして1999年3月までその子はその店でぼくを迎えてくれることになる。 不思議だったのは一緒に働いていたお姉さんの行動だった。
文江ちゃんがぼくに慣れてきた頃、そのお姉さんがよく店を留守にするようになったんだ。 「ちょっと用事が有るから出掛けてくるね。」
しかも、決まってぼくが店に来ると必ずお姉さんが店を出て行く。 文江ちゃんも不思議そうな顔で見送るんだよね。
「もしかして恋人だって思ってるんじゃないかなあ?」 「そうなんですかねえ?」
話しながらぼくらはいつも首を傾げていた。 確かに仲は良かったけど。
B‐Sがベストアルバムを出した時には付録の写真集をあげたりもしたっけなあ。
買い物を済ませて精算した後、「これ知ってる?」ってぼくは徐に写真集を取り出す。 「それって何ですか? え? B‐Sじゃないですか。 どうしたんですか?」
「こないだのベストアルバムの付録だよ。」 「cdはお兄ちゃんに借りたから知ってるけどこんなのが付いてたんですねえ?」
驚く文江も可愛いなと思った。 そんな文江が卒業した時、、、。
「今日でバイト終わりなんです。 今までありがとうございました。」
そう言ってくる文江にぼくは寂しさを感じていた。 すると、、、。
「確か、リンゴヨーグルトが好きでしたよね? こんなことしか出来ないけど受け取ってください。」
そう言われた時、ぼくが彼女に恋をしていることに気付かされたんだ。 でもふと考えた。
ぼくは30歳。 文江はもうすぐ19歳。
母さんと同じような苦しい体験を体験をさせてはいけない。 自分にブレーキを掛けたんだ。
素直に「好きだ。」って言えば良かったのかもしれない。 でもそれをぼくはしなかった。
理由は二つ有る。 それは彼女がjrのバスガイドに採用されたこと。
数日間 家を留守にするような仕事をしていて全盲のぼくの心配までさせるわけにはいかない。
もちろん、その時 文江ちゃんが好きだったかどうかも聞いてはいない。 聞いていたらさらに苦しんだことだろうから。
文江ちゃんがjrバスに就職することを聞いてお祝いに腕時計を贈った。 これが最後でもいいとぼくは思った。
それから一か月ほどして鹿児島局番の電話が携帯に掛かってきた。 ぼくは歯の治療中で出れなかった。
でもその時にあのお姉さんが言っていたことを思い出したんだ。
「文江ちゃん しばらくは鹿児島に引っ越すんだって。」 (もしや?)と思ったけれど折り返しで掛けることはしなかった。
本当に話した蹴れば掛けてくるって思っていたから。
さあさあ楽器屋さんとはさらに仲良くなりましていろんなことを教えてもらってます。 洋楽に本気で興味を持ったのもこの頃。
イーグルス、ディーク゚パープル、ベンチャーズ、エリックプラクトン、サイモンアンドガーファンクル、、、、今まではほとんど聞かなかった洋楽を聞くようになったのはこの頃。
部屋でもレコーディングごっこは続いてます。 ギターを何本も買い込み、マイクスタンドを立てて歌手気取りも。
エフェクターもいろいろと買い集めたなあ。 文江ちゃんが居なくなって趣味が趣味ではなくなってきたような、、、。
そしてさらに衝撃が、、、。 一番仲の良かった主任が辞めたんだ。
この頃、老健は不思議な動きをしていた。 目の前の田んぼを潰して宅老所を作ったんだ。
でも利用者は意外と増やせずに居た。 そこであっちこっちの姉妹園から利用者を引っ張ってきていた。
さらには利用者の請求書に宅老所の利用料を上乗せして請求するようになっていた。 おばあちゃんたちからは疑問の声が上がった。
「不思議なんだよ。 デーサービスしか使って無いのに請求金額が増えてるんだ。」 この声に主任さんも気付いていたのだろう。
嘘は吐けない人だったから悩み抜いて辞職を決断したものと思う。 最後の最後にぼくの所にも挨拶に来た。
それでぼくは記念にカセットテープと本を贈った。 カセットテープは『北九州青年平和音楽祭』の物だ。
本は出版されたばかりの『新人間革命 第1巻』。 せめてもの恩返しのつもりだった。
実は母さんが事故に遭う前の日、北九州青年平和音楽祭に向けてメインキャストになる合唱団が結団式を行ったんです。 ぼくは参加しなかった。
アジア青年平和音楽祭で合唱団として参加させていただいたのだから後輩に譲りたいと思って。 ところがその迷いが魔を付け入らせてしまったんだ。
事故の夜、思い切って合唱団への参加を申し出たんです 改めて。 それから新たな戦いが始まりました。
音楽祭で歌う曲目も決まってきています。 『青年よ 21世紀の公布の山を上れ』 『前身の歌』などなど。
会館でのパート練習もだんだん激しくなってくる。 10月には全体練習も始まっていよいよ特訓に思えてくる。
音楽祭の会場は北九州市立総合体育館。 ある日曜日、中間市のドームで練習していた時のこと、、、。
テノールパートの人たちを見回していると、、、。 あっちこっちからピーピー 音が聞こえる。
そうかと思えば「あいつとどうする?」 「終わったら何処に行く?」なんて話し声が聞こえてくる。
(これはまずいな。) そう思ったぼくは月曜日のパート練習会で思い切ってみんなにぶつけた。
「昨日の練習会に参加しました。 でも周りから携帯の音は聞こえるし話し声は聞こえるし、邪魔でしょうがないんだよな。
歌唱指導をしてくれている先生にも申し訳ないし迷惑だからやめないか?」 その声に反論は無かった。
その一週間後、中間市のドームでの練習会は雰囲気が違って見えた。
「お待たせしました。 テノールパートの皆さん やりましょうか。」 歌唱指導の沢田さんは前回の様子をしっかりと見ていてぼくらを最後に回したのだ。
他のパートの人たちは思わず笑ったがぼくらが歌い始めると静まり返ってしまった。 沢田先生もその気迫に圧倒されたらしい。
歌い終わったところで沢田先生は言った。 「良く変わったな‼ あれだけ思い切って堂々と間違えられたら何も言えないよ。」
一週間でみんなが変わってしまった。 ぼくはそれを見て驚いた。
音楽祭は11月9日に佐藤全国男子部長を迎えて行われた。 寒くなり始めた冬の入り口だった。
この頃、母さんは少しだけ意識を取り戻して一般病棟に移されていた。 ICUで出頭していた医師も驚いたという。
「こんなことが有るのかね? 脳挫傷でも蘇るのは難しいのに脳挫滅から意識を取り戻すなんて。
この世に奇跡と呼べる物が有るとしたらこれはまさしく奇跡だよ。」 医師はそう言って見送ってくれたというのである。
この一か月、ぼくは全く油断できなかった。 油断すれば母さんを死なせることになるんだから。
「絶対に母さんは死なせない。 死ぬんだったら俺の命を捧げてもいい。」 その思いで走り抜いた一か月だった。
そのために慰安旅行さえキャンセルしたほどだ。 同僚の多くは不思議な顔をした。
主任以外には事故の報告をしていなかったんだから。
母さんはそれから辛いリハビリを耐え抜いたのである。 そして少しの時間でも自力で立っていられるまでに回復した。
体に限界は有っても命に限界は無い。 そのことを教えてくれた母さんだった。



