眉毛のトンちゃん、、、村山富市が総理になったまではいいけれど、河野洋平と組んで従軍慰安婦問題に油を注ぎました。
これって実は朝日新聞がデマを打ち上げて以後30年、燻ぶりに燻ぶらせた大問題でしたよねえ。
そして韓国がぶら下がりにぶら下がる負の因縁を作り上げた変な事件でした。
こいつらのおかげで日本は韓国にお代わりを何杯も要求されることになったわけ、、、。 2025年の今も怪しい動きが有りますけど、、、。
以来、韓国押しの人間が増えてきます。 気持ち悪いくらいに。
そんな1994年、創価学会が超嫌いな人たちが4月会を作って動き始めましたね。 ほんとの名前は〈死学会〉だって。
それに対抗する形で創価学会は福岡で5万人の音楽祭『アジア青年平和音楽祭』を打ち出します。 ぼくも合唱団に参加させてもらいました。
歌うのは『第九』。 ベートーベンの交響曲第9番です。
ドイツ語ですよ。 教えてくれる人も居ません。
冷や汗の中で特訓に臨みました。 その頃はまだ無職でしたから必死でしたよ。
朝晩の勤行は欠かせません。 祈るのは仕事のことばかり。
平成不況が始まったばかりでやっと賃金や採用にも大きな影響が出始めた時です。
マッサージ師は1992年当時から急激な解雇が増えました。 役所で働いていたヘルスキーパーもこの頃に解雇されていますね。
それに警鐘を鳴らしたのは聖教新聞だけだった。 それくらいに一般社会では知られていないニュースです。
80年代は企業でもヘルスキーパーの採用が多かった。 2000年を過ぎた今では全く聞きません。
まあ確かに何かを生産するわけではないから拒絶されても仕方が無いのかも。
アジア青年平和音楽祭の規模は5万人。 「何処でやるんだ?」って聞かれそうな数字ですが、、、。
会場は福岡ドーム。 現在のヤフオクドームですね。
開閉式屋根が特徴のあのドームです。 そこのアリーナからスタンドまで埋め尽くしてやるわけです。
中心になるのは[21世紀シルクロード合唱団]と後で命名される1万人の合唱団です。 その中にぼくも居ました。
それをサポートするように4万人の[21世紀フロイデ合唱団]が居ます。
学生とか海外メンバーが含まれている合唱団です。
そして九州大学と創価大学の学生から選ばれた115名のオーケストラが控えています。
さらには8000人の人文字隊、九州音楽隊、富士鼓笛隊が花を添えています。
海外といえば今は昔になってしまった香港、いつも陽気なインド、復興途中のカンボジアなどの国からメンバーが集まりました。
ところが会員が居る台湾は招待されませんでした。 中国共産党の要人を迎えていたから。
そこにものすごい違和感を感じましたね。 中共の全青連と友好協定を結んだのもこの時。
今の習近平政権にとって全青連は敵中の敵ですけど、、、。
開催日は11月23日。 なかなかに寒い日でした。
この日、ぼくはものすごい風邪をひいていて38℃を超える発熱で苦しんでいました。 その体を押して参加したんです。
だから余計に記憶に残っています。 負けたくはなかった。
翌日に老健での面接も組まれていましたから余計に負けたくはなかった。
やっとの思いで捕まえた面接だったから。
当日、ドームへ向かうバスの中、ぼくは解熱剤を飲んで寝ていました。
ドームに着いてからも再び解熱剤を貰って開始直前まで寝ていました。 午後1時半の開始です。
音楽祭は4部構成。 交響曲みたいに。
第4楽章は『歓喜のアジア』。 ここで大合唱を。
池田名誉会長ももちろん来られてました。 ぼくが座っていた位置からは右前方だったかな。
この日、話をされることは無かったけれど同じ空間を共有できたことは今でも誇りだと思う。
2年前「2023年」に亡くなったけれど亡くなって初めて影響の大きかったことを知らされることも有る。
それに合わせるかのように世界が動揺し始めたんだ。 イスラエルとハマスが正面衝突をしたのもそう。
イランがミサイルを撃ち込んだのもそうだった。 もちろん、それまでにも似たようなことは有ったけど。
中東は何年も戦争を繰り返してきたわけだしね。 でもそれが激情に変わったのはこの時。
まるで天照大神が天岩戸に隠れた時のようにあらゆる災いが降り注いでいる感が有る。 いつまで続くんだろう?
でも人間が心の底から命を感得しない限り災いは終わらないだろう。
さてさて感動の音楽祭も終わった翌日、老健での面接を受けまして取り敢えず「やってみようか。」ってことになりました。
ところがね、油断していたからなのか、一週間後に園長が採用の無期延期を通告してきたんです。 焦った。
「現場の職員も不安に思ってるし利用者も多いからケガされても困るしね。」 老獪でしたねえ。
求人票を仲介したハローワークも困惑していました。 「次の仕事が出るまで待とうか。」
ぼくはと言えば気持ちが収まらないので市議会議員に相談しましてね。 「分かった。 園長と仲のいい人が居るから話を聞いてくるよ。」
その結果、「職員が不安がってる」というのは作り話だったことが分かりましてハローワークに体験雇用を申し出てくれましたんです。
そのおかげも会って12月から働くことが出来ました。
でもね、最初は大変でしたよ。 デーサービスと言っても出来たばかりで利用者はそんなに居ません。
午前中に一人か二人やれば終わってしまうんです。 午後はまるで暇だった。
ホームのほうにはたくさん居るんだけどデーでの採用だったので、、、。
その仕事が激増するのは95年4月からのこと。 利用者も一気に60人を越えてきました。
そうなるとマッサージも20人を越えてきます。 いきなり忙しくなってきたわけです。
制採用になった瞬間に仕事が激増したわけ。 朝から休み無し。
9時前に職場に着いて準備をする。 利用者が来るのは10時ごろ。
それから予約を入れてもらってさあスタート。 でもまあ大変なんですよ これが。
リハビリと入浴とメディカルチェックを同時進行でやるもんだから、、、。
働き始めた最初の頃は少なかったから一人に30分掛けても文句は言われなかったけどそうも言ってられない。
15分に短縮して次から次へとこなしていかないと終わらない。 終いには10分で切り上げる所にまで行ってしまった。
25歳だったからまだまだやっていられたけど50を過ぎたらやりきれなかっただろうなあ。
利用者はそれからもどんどん増え続けて気付いたら80人近くにまで増えてました。
となるとマッサージも40人近くにまで増えた計算になります。
あんまりに多いので予約できなかった人も居るくらいだからね。
学会員としての活動は、、、。
1992年、福岡に帰ってきて最初にぶつかったのが参議院議員選挙だった。 あの頃はまだまだ元気だった野党時代。
この年は「空前絶後の大勝利」と言われたくらいの大勝利をしました。
その後、ぼくは治療院に住み込むために久留米市に移りました。 この頃にやっていたのがボイスエード。
ポルポト政権が倒れて平和になりつつあったカンボジアにラジオを送る活動です。
アンタックの明石さんは最初、ラジオ集めを社会党に打診しましたが、思うように集まらなかったので創価学会に求めてきたんです。
ぼくは久留米市でその活動に加わりました。 さあ地区リーダーに同行です。
ですが最初は思うように集まりません。 地区リーダーもぼやき始めました。
「100軒回って100台貰おうと思ってませんか?」 ぼくは利きました。
「いやまあ、多いほうがいいですけど、、、。」 彼は言葉を濁しました。
「100軒回って10台貰えたらそれでいいじゃないですか。 何なら九州全部回って100台集められたらそれでいいじゃないですか。 そうでしょう?」
活動となると人は100パーセントを求めたがるんですよね。 出来る環境ならそれでもいい。
でも必ずそう出来るとは限らない。 それでも無理に結果を出そうとする。
だから行き詰まるんです。 勉強でもそう。
仕事でもそう。 最初から出来もしない目標を掲げる人が多い。
それを身の程知らずって言うんですよ。
ぼくがそう話した後、不思議にもラジオが集まってきて終いには抱えていられなくなるくらいになりました。
「こんなことも有るんですねえ。」 30代の地区リーダーは感激していました。
その後もポストエードとかアースリーグとか活動は続いていきました。
その頃、ぼくを折伏してくれたあの人は何をしていたんでしょう?
ぼくが福岡に帰って間もない頃はしょっちゅう電話してきて「お前はどうせみんなの足手まといなんだろうから大阪に帰ってこい! 関西精神を叩き込んでやるから!」
そう言っては脅迫していたのにそれも無くなって、、、。
35年経った今でもなぜそこまで言い放っていたのか分かりません。
まあ入信したばかりで何も分かっていないから教え込もうとでも思ったのかな?
でも戸田城聖第二代会長ははっきり言っている。
「折伏した相手に対して「俺が親だから俺に従え。」というのは傲慢であり誤りである。」と。
でもここにその誤りに気付いていない人が居たってわけだ。 悲しかったなあ。
これって実は朝日新聞がデマを打ち上げて以後30年、燻ぶりに燻ぶらせた大問題でしたよねえ。
そして韓国がぶら下がりにぶら下がる負の因縁を作り上げた変な事件でした。
こいつらのおかげで日本は韓国にお代わりを何杯も要求されることになったわけ、、、。 2025年の今も怪しい動きが有りますけど、、、。
以来、韓国押しの人間が増えてきます。 気持ち悪いくらいに。
そんな1994年、創価学会が超嫌いな人たちが4月会を作って動き始めましたね。 ほんとの名前は〈死学会〉だって。
それに対抗する形で創価学会は福岡で5万人の音楽祭『アジア青年平和音楽祭』を打ち出します。 ぼくも合唱団に参加させてもらいました。
歌うのは『第九』。 ベートーベンの交響曲第9番です。
ドイツ語ですよ。 教えてくれる人も居ません。
冷や汗の中で特訓に臨みました。 その頃はまだ無職でしたから必死でしたよ。
朝晩の勤行は欠かせません。 祈るのは仕事のことばかり。
平成不況が始まったばかりでやっと賃金や採用にも大きな影響が出始めた時です。
マッサージ師は1992年当時から急激な解雇が増えました。 役所で働いていたヘルスキーパーもこの頃に解雇されていますね。
それに警鐘を鳴らしたのは聖教新聞だけだった。 それくらいに一般社会では知られていないニュースです。
80年代は企業でもヘルスキーパーの採用が多かった。 2000年を過ぎた今では全く聞きません。
まあ確かに何かを生産するわけではないから拒絶されても仕方が無いのかも。
アジア青年平和音楽祭の規模は5万人。 「何処でやるんだ?」って聞かれそうな数字ですが、、、。
会場は福岡ドーム。 現在のヤフオクドームですね。
開閉式屋根が特徴のあのドームです。 そこのアリーナからスタンドまで埋め尽くしてやるわけです。
中心になるのは[21世紀シルクロード合唱団]と後で命名される1万人の合唱団です。 その中にぼくも居ました。
それをサポートするように4万人の[21世紀フロイデ合唱団]が居ます。
学生とか海外メンバーが含まれている合唱団です。
そして九州大学と創価大学の学生から選ばれた115名のオーケストラが控えています。
さらには8000人の人文字隊、九州音楽隊、富士鼓笛隊が花を添えています。
海外といえば今は昔になってしまった香港、いつも陽気なインド、復興途中のカンボジアなどの国からメンバーが集まりました。
ところが会員が居る台湾は招待されませんでした。 中国共産党の要人を迎えていたから。
そこにものすごい違和感を感じましたね。 中共の全青連と友好協定を結んだのもこの時。
今の習近平政権にとって全青連は敵中の敵ですけど、、、。
開催日は11月23日。 なかなかに寒い日でした。
この日、ぼくはものすごい風邪をひいていて38℃を超える発熱で苦しんでいました。 その体を押して参加したんです。
だから余計に記憶に残っています。 負けたくはなかった。
翌日に老健での面接も組まれていましたから余計に負けたくはなかった。
やっとの思いで捕まえた面接だったから。
当日、ドームへ向かうバスの中、ぼくは解熱剤を飲んで寝ていました。
ドームに着いてからも再び解熱剤を貰って開始直前まで寝ていました。 午後1時半の開始です。
音楽祭は4部構成。 交響曲みたいに。
第4楽章は『歓喜のアジア』。 ここで大合唱を。
池田名誉会長ももちろん来られてました。 ぼくが座っていた位置からは右前方だったかな。
この日、話をされることは無かったけれど同じ空間を共有できたことは今でも誇りだと思う。
2年前「2023年」に亡くなったけれど亡くなって初めて影響の大きかったことを知らされることも有る。
それに合わせるかのように世界が動揺し始めたんだ。 イスラエルとハマスが正面衝突をしたのもそう。
イランがミサイルを撃ち込んだのもそうだった。 もちろん、それまでにも似たようなことは有ったけど。
中東は何年も戦争を繰り返してきたわけだしね。 でもそれが激情に変わったのはこの時。
まるで天照大神が天岩戸に隠れた時のようにあらゆる災いが降り注いでいる感が有る。 いつまで続くんだろう?
でも人間が心の底から命を感得しない限り災いは終わらないだろう。
さてさて感動の音楽祭も終わった翌日、老健での面接を受けまして取り敢えず「やってみようか。」ってことになりました。
ところがね、油断していたからなのか、一週間後に園長が採用の無期延期を通告してきたんです。 焦った。
「現場の職員も不安に思ってるし利用者も多いからケガされても困るしね。」 老獪でしたねえ。
求人票を仲介したハローワークも困惑していました。 「次の仕事が出るまで待とうか。」
ぼくはと言えば気持ちが収まらないので市議会議員に相談しましてね。 「分かった。 園長と仲のいい人が居るから話を聞いてくるよ。」
その結果、「職員が不安がってる」というのは作り話だったことが分かりましてハローワークに体験雇用を申し出てくれましたんです。
そのおかげも会って12月から働くことが出来ました。
でもね、最初は大変でしたよ。 デーサービスと言っても出来たばかりで利用者はそんなに居ません。
午前中に一人か二人やれば終わってしまうんです。 午後はまるで暇だった。
ホームのほうにはたくさん居るんだけどデーでの採用だったので、、、。
その仕事が激増するのは95年4月からのこと。 利用者も一気に60人を越えてきました。
そうなるとマッサージも20人を越えてきます。 いきなり忙しくなってきたわけです。
制採用になった瞬間に仕事が激増したわけ。 朝から休み無し。
9時前に職場に着いて準備をする。 利用者が来るのは10時ごろ。
それから予約を入れてもらってさあスタート。 でもまあ大変なんですよ これが。
リハビリと入浴とメディカルチェックを同時進行でやるもんだから、、、。
働き始めた最初の頃は少なかったから一人に30分掛けても文句は言われなかったけどそうも言ってられない。
15分に短縮して次から次へとこなしていかないと終わらない。 終いには10分で切り上げる所にまで行ってしまった。
25歳だったからまだまだやっていられたけど50を過ぎたらやりきれなかっただろうなあ。
利用者はそれからもどんどん増え続けて気付いたら80人近くにまで増えてました。
となるとマッサージも40人近くにまで増えた計算になります。
あんまりに多いので予約できなかった人も居るくらいだからね。
学会員としての活動は、、、。
1992年、福岡に帰ってきて最初にぶつかったのが参議院議員選挙だった。 あの頃はまだまだ元気だった野党時代。
この年は「空前絶後の大勝利」と言われたくらいの大勝利をしました。
その後、ぼくは治療院に住み込むために久留米市に移りました。 この頃にやっていたのがボイスエード。
ポルポト政権が倒れて平和になりつつあったカンボジアにラジオを送る活動です。
アンタックの明石さんは最初、ラジオ集めを社会党に打診しましたが、思うように集まらなかったので創価学会に求めてきたんです。
ぼくは久留米市でその活動に加わりました。 さあ地区リーダーに同行です。
ですが最初は思うように集まりません。 地区リーダーもぼやき始めました。
「100軒回って100台貰おうと思ってませんか?」 ぼくは利きました。
「いやまあ、多いほうがいいですけど、、、。」 彼は言葉を濁しました。
「100軒回って10台貰えたらそれでいいじゃないですか。 何なら九州全部回って100台集められたらそれでいいじゃないですか。 そうでしょう?」
活動となると人は100パーセントを求めたがるんですよね。 出来る環境ならそれでもいい。
でも必ずそう出来るとは限らない。 それでも無理に結果を出そうとする。
だから行き詰まるんです。 勉強でもそう。
仕事でもそう。 最初から出来もしない目標を掲げる人が多い。
それを身の程知らずって言うんですよ。
ぼくがそう話した後、不思議にもラジオが集まってきて終いには抱えていられなくなるくらいになりました。
「こんなことも有るんですねえ。」 30代の地区リーダーは感激していました。
その後もポストエードとかアースリーグとか活動は続いていきました。
その頃、ぼくを折伏してくれたあの人は何をしていたんでしょう?
ぼくが福岡に帰って間もない頃はしょっちゅう電話してきて「お前はどうせみんなの足手まといなんだろうから大阪に帰ってこい! 関西精神を叩き込んでやるから!」
そう言っては脅迫していたのにそれも無くなって、、、。
35年経った今でもなぜそこまで言い放っていたのか分かりません。
まあ入信したばかりで何も分かっていないから教え込もうとでも思ったのかな?
でも戸田城聖第二代会長ははっきり言っている。
「折伏した相手に対して「俺が親だから俺に従え。」というのは傲慢であり誤りである。」と。
でもここにその誤りに気付いていない人が居たってわけだ。 悲しかったなあ。


