痴漢に触られたところが気持ち悪かったから、一刻も早くシャワーを浴びたかった。

 大学から一駅しか離れていない下宿先のアパートが視界に入ったところで、小春はほっと安堵の息をつく。

 狭い階段を上って、リュックから鍵を取り出したときだ。小春の部屋の前に、二つの人影が立っていることに気付いたのは。

「母と、大雅(たいが)さんでした。大雅さんっていうのは、私の許嫁です」
「い、許嫁? もしかして何か、良いとこのお嬢様だったりする……?」

 ぎょっとした彼に小春は曖昧に笑った。

「いえ、私の父が小さな町工場を営んでいて。大雅さんは、その親会社の社長さんの息子ですね」
「……じゃあ次期社長?」
「はい。あの人に務まるのか知りませんけど」

 小春の刺のある言い方に、彼はまばたきを繰り返した。

「私、大雅さんのこと好きじゃないんです。小さい頃から意地悪だし、叩くし、怒鳴るし。でも母には愛想良くしてるところが大嫌い。一度も好きだったことがありません」

 許嫁云々は、大雅が我儘を通して小春を指名したからまとまった話だ。小春の意見はひとつも聞かれなかったので、高校に上がって初めて自分と大雅が婚約関係にあることを知った。

「母に嫌だって何回も言ったんですけど、あんな良い男性は他にいないわよって聞いてくれなくて。父も社長の息子を断るなんて出来ないから、困ったように謝られてしまいました」

 仕方がないことだとは思った。

 外面だけは良い大雅が世間では「有望株」なんて言われていたり、母の機嫌を取るのが妙に上手かったり、町工場を優遇して父を黙らせたり──。

 逃げたいと思ったときには、既に外堀を埋められてしまっていたから。