スイート×トキシック


「一応、これは被っといて欲しいんだけど」

 十和くんはキャップを掲げ、わたしの頭にそっと被せた。

「俺のだからちょっとでかいね。でも、いまはちょうどいいか」

 確かにキャップはゆるくて、少しでも動けば(つば)の部分がずり落ちてくる。
 きっと目元は影になって、周囲からは見えない。

「行こっか」

 十和くんは何のためらいもなく、当たり前のようにわたしの手を引いた。

「え……っ。ま、待って」

 思わず、その場に留まるようにして足を止める。

 どうしてそんなに迷いがないの?
 どこか吹っ切れたみたいな表情で。

 平然としている彼とは裏腹に、わたしの心臓は不安気な音を立てていた。

「いい、の?」

 そんなふうにわたしを連れ出して、本当にいいの?

 外へ出てしまったら、わたしは十和くんから逃げるかもしれないのに。

 がんじがらめのドアも、自由を奪う拘束もないのだから。

 本気で走ったら、きっと簡単に振り切れてしまう。
 大声で叫んだら、きっと誰かが助けに来る。

 平穏なお城の中とはちがって、そんな不確かで危険な場所なのに。

 くす、と十和くんは小さく笑った。

「いいよ? 俺に芽依の自由を奪う権利なんてないんだし」

 何それ、ととっさに思った。

 いままでずっと不自由(それ)が当たり前だったくせに。
 そうやってわたしを縛りつけてきたくせに。

(どうして、いまさら突き放すの……?)

 十和くんはこの生活が終わってもいいのだろうか。
 それを、受け入れたというの?

「……あれ、どうしたの。外出られるの嬉しくない?」

 わたしが泣きそうな顔をしていることに気づいたのか、彼は不思議そうに首を傾げた。

 きゅ、ときつく口の端を結ぶ。

(……わたしは嫌だ)

 終わらせたくない。

 何も答えないで廊下に出た。
 リビングのドアを開けると、テーブルの上に置いてあったものを掴む。

「ちょっと、芽依?」

 困惑気味に追いかけてきた十和くんを振り返って、手にした手錠を掲げてみせた。

「それ……」

「つけて。そしたら行く」



 玄関のドアが開かれる。

 最初にわたしを絶望させたそれは、いとも簡単に外の世界へと繋げてくれた。

 もうすっかり夜だったけれど、備えつけの照明のお陰で共用廊下は明るい。

(こんな感じだったんだ)

 想像通りといえば想像通り、綺麗で新しそうなレンガやコンクリートのおしゃれな外観。

 意外だったのは、マンションはマンションでも低層マンションだったということ。

 手すりから見下ろせば、ここは最上階の3階であることが分かった。
 目の前に広がった景色は案外、地面と近い。

「…………」

 久しぶりに外の世界を目にして、その空気を味わったものの、思ったよりも感動はなかった。

 こんな感じ、だったっけ。
 部屋の中よりもよっぽど(よど)んでいるような気がする。