触れられることに、近い距離に、だんだん慣れ始めている自分がいた。
抵抗感や嫌悪感はすっかり息を潜めてしまって。
役割を忘れた防衛本能のせいで、わたしは“正しさ”を見失いかけている。
(十和くんって……悪い人なんだよね?)
いびつな愛と狂気を持ち合わせた、危険な誘拐犯。
感情が暴走したら豹変して、わたしを徹底的に痛めつける、サディスティックなエゴイスト。
(わたし、殺されかけたんだよね……?)
首を絞められた、あの苦痛は忘れられない。
優しい言葉を囁かれても、柔らかい笑顔を向けられても、慈しむように触れられても。
都合よく上塗りしたって、すぐに剥がれ落ちてくる。
鮮明に焼きついたあの記憶は油みたいに、日々起こる出来事を弾いてしまう。
(それなのに────)
あんなに“許せない”と思って恨んでいたはずなのに、憎めなくなってしまった。
いまは十和くんの想いに応えられないことが心苦しくて、彼を見ていると胸が痛い。
報われない恋の辛さは身に染みて分かっているから、せめてそれ以外では、傷つけたくなくて。
それでも、いつまでもここに留まること自体が正しいとは思えない。
自分を優先できるだけ、わたしはまだ冷静だ。
(だって、やっぱり間違ってる……よね)
どんな想いや事情があったとしても、十和くんのしていることはおかしい。
その感覚を失ったら終わりだ。
それなら、わたしのやることはひとつだけ。
「ねぇ、十和くん。今日の夜ご飯なに?」
「んー? うーん、どうしようかなぁ」
宙に目を向けた彼を見て、心臓が音を立てる。
チャンスだ。
「じゃあ、パスタがいいな」
フォークを使う料理がいい。パスタなら以前に一度、それで食べた。
あのときはコンビニでもらったプラスチック製のものだったけれど。
「パスタ? こないだの?」
「じゃなくて、十和くんの作ったやつ」
正直なところどっちだってよかったけれど、料理好きな彼に出来合いのものを要求するのは気が引けた。
事実、十和くんの作るものは美味しい。
ややあって、ふっと彼が笑った。
「……かわいいこと言ってくれるね。俺の手料理、気に入ったんだ。嬉しいなぁ」
それは心の中でも否定できない。
そういう作戦だったのかも。
「いいよ、じゃあパスタ作ってあげる」
「本当? やった、ありがとう!」
「そんなに好きだったの? さすがに知らなかったな」
そういうわけじゃないけれど、わざわざ否定するまでもなかった。
誤魔化すように笑いつつ、思考を巡らせる。
あとはどうやってフォークを持ってきてもらうか。
そして、それをどうやって手にするか。
“彼に食べさせてもらう”といういつもの流れを、どうしたら断ち切れるだろう?



