「……ん、芽依ちゃん」
穏やかな声に名を呼ばれて、うっすらと目を開ける。
いつの間にか眠ってしまっていたらしく、慌てて起き上がった。
「わ、たし……」
「ただいまー」
目の前にいた十和くんが手を伸ばしてきて、そのままぎゅうっと抱き締められる。
爽やかなシトラスが香る。柔らかくて優しい、いいにおい。
触れる温もりが、のしかかる重みが、その存在を実感させてくれる。
困惑した。
どく、と心臓が沈み込むように鳴る。
(え? わたし、いま……ほっとしてる?)
まさか。そんなわけがない。
そう思うのに、十和くんという存在が心の隙間に滑り込んでくる。
少し癖のついた彼のふわふわの髪が、わたしの頬や耳元をくすぐった。
「今日もいい子で待っててくれたんだね。よしよし」
抱き締めたまま、頭の後ろの部分を撫でられる。
回された腕の力は強くて、“好き”だと伝えているようでも、逃がさないという意思の表れのようでもあった。
だけど、いまは不思議とかえって落ち着いた。
わたしがここにいること、十和くんだけは知っている。
わたしの時間を動かせるのは彼しかいない。
「ねぇ、退屈じゃない? ひとりで過ごすの」
「それは、まあ……」
曖昧に言い淀んだのは彼の意図が分からなかったからだ。
確かにこの部屋の中でできることなんて限られているし、決して居心地がいいとは言えない。
「そうだよね。気遣えなくてごめんね? こんな床じゃ身体も痛いだろうし、何か色々持ってくるよ」
「あ、ありがとう」
それ自体は快挙だ。
けれど、そんなことを気にかけるくらいならもう解放して欲しい、というのが本音だった。
口にした瞬間、きっと痣が増えるだけだから言わないけれど。
いっそう笑みを深めた十和くんは、もう一度強く抱きすくめてきた。
肩のあたりに顔をうずめられ、先ほど以上にくすぐったい。
「……幸せだなぁ。こんなふうに芽依ちゃんをひとりじめできるなんて」
中途半端にもたげた腕を、彼に届く前に下ろした。
いくら擦り寄るための“ふり”だとしても、先生のことがちらついて触れられなかった。
────十和くんが出ていくと、またひとりになる。
床にはコンビニの袋のほかに、あのとき渡されたクッキーが転がっていた。
『許してくれる?』
何となく手をつけられなかったのは、一緒に渡されたそんな言葉のせい。
わたしには彼を許す気も受け入れるつもりもない。
握り締めた右手を振り下ろすと、クッキーは包装の中で砕けた。
(……負けないから)
割れたクッキーの欠片を口に放り込む。
絶対にここから出てやるんだ。



